たまに、「何なのその生き方」って言われるけれど、発想の次元が噛み合ってない気がする。なんとなく今日を生きればいいというのが1次元の発想。そこに、キャリア上の成否、経済的な成否基準を持ち込んでベクトルが生まれるのが2次元の発想。さらに、ワークライフバランスとか、幸福感とか別の方向軸が持ち込まれるのが3次元の発想。
西園寺の生き方はおそらく、4次元的である。4つ目の方向として時間軸を取って、3次元の生き方の動的な変化と膨張のサイクルを盛り込んで前提としている、それ自体を動的な安定体として捉えているとも言えるし(3次元の連続移動軌跡)、それとはまた別の方向軸としての空間軸を取っているかもしれない。たとえば、キャリアという見方で考えれば、そもそも場所や空間に縛られておらず、自分の仕事が自動的に動いているようなサマ、そしてそれとは別空間にいながら暮らしているサマは4次元的なものに近いのではないか。
マトリックスの世界観はこの世に存在すると思ってしまう。
人工知能が身体性を持たない姿、人間が身体性の制約に囚われている姿、そしてそれらの融合の未来などを思う時。あるいは、物理学の歴史をひも解いて、パラダイムの転換が起こる時。やっぱりそういう時には、何かしらの制約から解き離れていると感じる。
情報空間、仮想現実、身体性から解き放たれた知能・・・・こういう新たな概念はまさに、4D的な世界観を提示するものではないかと思う。自分自身、勝手に生き方を模索して、勝手に独自理論や独自思想を持って、仮説検証的に生きてきたから、「時間は絶対的ではありません」という理論を前にして「そんなバカな!」と昔の物理学者が思ったように、オンラインで完結的なビジネスを構築して自動的に収益を発生させ労働から解放されることを概念的に理解した人、現実世界で実証してしまった人、実際に実行してしまった人は、「そんなバカな!」と思いつつもその現実を受け入れながら生きている。
昔と比べて、知的生産産業の重要性、価値は上がってきたけれど、「目に見えるものしか信じない、信じれない」というのは、ある意味、情報産業世界・インテリ世界・高度知能生産の世界に向いていない。現象ばかり追っている人、概念がわからない人は、もう、生き残っていけない。そもそも高度な知能活動の世界は、ほとんどが概念の操作、目に見えないものについての仕事である。
信じる・信じないについて、「思考停止・思考活動的(懐疑主義)」という別の尺度を表裏一体化させるようにピタリとくっつけて、物事を捉える人がいるけれど、信じるということがそのまま、思考停止であること、「(五感で検証しようがない、しづらい、常識的には受け入れられないなど)無いことを信じる人、つまり騙されている人」ということにはならない。
そもそも、たとえば、未来を描く仕事、未来に向かって決断すること、うまくいくかどうかわからないことにチャレンジすること、自分のキャリアを描いていくこと、成功や成果を目指すもの、これらはすべて、「見えないもの(今そこにはないもの)」を扱う仕事である。そして、これらの報酬は大きい。喜びもひとしおである。
目に見えるもの、そこにあるものしか信じられない、やれない人は、工場のベルドコンベア式に、目の前に降ってくるタスクを処理し、肉体労働し、決まり切ったルーチンライフスタイルを送り、自分のコンフォートゾーンで、過去の延長線上の人生を生きるしかない。そして、自分の「これまでうまくいってこなかった」人生体験の中でしか、「実証してこれなかった」知識、経験をベースにして、物事を判断したり決断するというジレンマと向き合い続けなければならない。
「やりたいこと」も「成功すること」も、自分の過去の記憶データや体験していないことを追いかけるというものである時点で、そもそも自分には大方のことがわからないということに自戒的である必要がある。そして、キーファクターは信念であることに気づく必要がある。そもそも、人間の頭脳、特に天才でもなんでもない自分の存在と自分の思考を信じて生きている時点で、そもそも人生はエアーのようなものである。だったら、思いっきり、エアー的に生きれば良い。自分の欲望や願望をポジティブに捉えて、それを充足させるための方向性に向かって、自分の思考や仮説を、コミットメントやリスクテイクを伴って試してみれば良い。賭けてみれば良い。そこで成功しようが失敗しようが、それはこれまでの人生経験には無かった臨床データとして自分の中に蓄積される。こういうものの積み重ねで人間は賢くなる、人生が前に進むのでは無いだろうか。「30年の勤務経験がありますというのは、同じ1年を30回繰り返しただけで何の経験でも無い」という揶揄があるように、経験には質があることに気づくべきである。
資格試験も、大学受験も、物理学者も、数学者も、起業家も、キャリアサクセスを狙う人も、みんな、「見えない何か」に向かって戦っている。
リスクテイクに過度に覚える人。
信用のハードルが高すぎる人。
こういう人たちはリアリティにこだわりすぎているけれど、そもそも、自分自身が望む方向性について、飛躍を目指している以上は飛躍する前からリアリティが感じられることがあるわけ無いと思わないのだろうか。思えないのだろうか。
はじめて東京に行く人は、東京タワーやハチ公を見て、
「あっ、本当にあるんだ」
と実感する。たとえ、本当にあるとわかっていても、信じていても、はじめてそこで実感する。逆に言えば、観光業というのはその心理で成立している。つまり、奈良の大仏なんてのは散々教科書で見せられているんだけれども、映像などでもいくらでも見れるんだけど、あえて見たことあるものを実際に見に行くのである。
確実にあるであろうものに対しても、そういう風に思うのが人間心理なのだから、もっと雲を掴むような話、ハードルが高い話になると、人間は信じれない。人の行動プロセスは、興味→信用→行動であるから、信じないとまず行動できない。行動が弱くなる。自分があの試験に受かる、あの大学に受かる、この会社で出世する、あの子に告白しても成功する・・・・と思えないと、その望む結果を呼び寄せるための確率をあげる必要行動を取ることができない。ここにジレンマがある。
望むものは約束されない。だから行動が不安になる。そして行動しない。だから望むものの現実化可能性が無くなる。
確実にもらえる給料、約束された保険、過去食えた仕事、みんなが当たり前のようにやっていて自分も当たり前のように馴染んでいること、先行事例があるもの、何かをなぞるだけのもの、上から降りてくる仕事をこなすだけの作業・・・・
こんなものばかりに囚われていたら成功も報酬もクソも無いのは当たり前である。
首から下の労働に対して値段がつかなくなった。
首から上の労働に対して値段がつくようになった。
首から上の労働に対しても、値段の差がある。
ハイプライスがついている領域は、見えないものと対峙するものが多い。
そもそも、道が整備されるようになった時点で、ある程度成功が約束されるようなルートが固まった時点で、先がすーっと見通せるようになった時点で、そこには多くの新人社畜が毛嫌いするような、老害ののさばる姿、ひたすら順番待ちをする人生、偉そうな先輩・・・・といういつものアレの再現であることに気づくべきである。
ITベンチャーも歴史が長くなれば、今の斜陽産業で年寄りがのさばり新人がいじめられるような構図が再現されるに間違いない。人間は歳を取れば無能化するから、歳を取ってもバリバリ現役プレーヤーとしてキレキレでいるか、マネージャー・リーダーとして大成しているか、教育者として成功しているか、財を築いているかとかの状態にならなければ、若者のように選択肢がない以上、守るものが多い以上、必ず今の位置に固執するようになる。そして権力の濫用がはじまる。よって、新人はいじめられる。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。