西園寺さんに友達はいない

西園寺さんに友達はいません。まぁ、何を持って友達というのか、どこからが友達で、友達に何を求めるのかという部分で難しいのですが、感覚的にはずっと1人です。世の中の人よりは、だいぶ、1人で生きてきた感覚は強いと思います。

いや、いることにはいるんですが、なんか、世の中の人よりは友達ってものに近接感というか、依存的なもの、ベタベタしたものを持ってない。一番仲が良い友人とは、老夫婦みたいな感じの関係性です、もはや。

彼と会ったとしても会話は少なく、お互いにぶっきらぼうであり、実に冷たいですね。笑。お互いの悪いところとか平気で言うし、彼は私のことを『自己啓発産業の被害者』とか平気で言ってきます。ビジネス書読むやつは馬鹿とか。つまり、私にそれ、言ってるわけです。笑。そして私は彼に、『社畜は終わってる』とか言うわけです。

お互い、違う世界で生きてますが、まー、腐れ縁ですね。たまにしか会わないけど。

余談ですが、西園寺さんが今仲良くしてるとある女の子は、『いつも本屋に言って、アホみたいな本を見るたび、こんな本、どんな人たちが買うんだろうと思ってたけど、、、なるほどね笑』とか言われました。笑。

 

社会人になって、友達がいないことに悩んでる人は多いですね。社会人向けの友達作りコミュニティとかノウハウにお金が流れ込んでることも、強いニーズがあることが伺えます。

私が世の中の人を見る限り、孤独というものとの折り合いのつけ方に、大人になっても悩んでる人が多いような気がします。特に、大学生年代まで友達に恵まれていたタイプほど、社会人になって苦悩しているのではないでしょうか。

その人の精神的な習熟度合いによるのですが、人はある段階で人生とは本質的に孤独である、と言うことに気づきます。深いレベルのものは、何をしようが拭えないことに気づきます。孤独感について、どの程度のレベルまでは友人関係などで癒せるか、というのは人それぞれでありますが、基本、どんな人間も深層レベルの孤独感は取りのぞけません。これは大人になればなるほど、直視しなければならない現実です。すなわち、それが大人になるということを精神的な面から捉えたもの、と言うこともできると思います。この現実に目を背けてる人は大勢います。

そんなことないよ!って言うタイプもいますが、こーゆー人はよくよく見ていくと、深層レベルの孤独感はどうしようもないことをナチュラルに理解してその点を意に介せず生きている強いタイプか、自我や自立というものと向き合っているレベルが未だ低いままか、付和雷同・依存の人生を続けているか、って感じがします、私見ですけど。

 

人間は、一方的な依存から自立へ、自立から相互依存へ、という風にステージ移行するそうです。相互依存というのは、自立を果たした人間たちが結びついて達成されるものであり、相互依存を望んでいる人間が、一方的な依存人間と結びつくと必ず、関係が破綻するか、どこかで怨恨が生まれます。依存者の方が勝手な勘違いをして、どこかで期待が裏切られたと思い、憤るわけです。

西園寺さんは、過去に、夢破れて宗教に逃げて、神に傾倒し依存しているアラサーと喋ったことがありますが、その人がナチュラルに頭悪すぎてヒイたことがあります。全部神にすがってる、全部神のせいにしてるんですね。傲慢の極みだと感じました。友達になろうと言われましたが、心底嫌だと思いました。

 

相互依存ステージの人間は、一方的依存者との関係を持ちたがりません。これはお互いにとって悪だとの判断からです。

相互依存の関係性というのは、互いの自立レベルが合わなさすぎると成立しないような気がします。

 

実家の大黒柱になっている例を除き、実家暮らしの人間で自立や相互依存のステージに立っている人間を見たことがありません。自分の社会的な自己確認や自己確立の部分で、他力に根ざす部分が大きければ大きいほど、思考精神レベルに甘さは出るでしょう、やはり。自分の中で思い考えてることと、実際の現実との間でギャップがありまくって、すべりまくってます。ハタから見ると、なかなか痛い。そしてそのすべりに焦った本人は、より自己誇張に走って、寒さがさらに加速するという感じです。

経済的自立が精神的自立と必ずしも結びつくわけではないですが、最悪のケースとしての経済的破綻と生活破綻を脳裏にちらつかせながら、精神的に深いレベルで自立について考えを巡らせている人間と、そうではない人間の間では差が生まれて当然です。

 

自分の人生を自分で決めようとすればするほど、自己と他者との相違が浮き彫りになっていきます。そして孤独感を感じる機会も増えます。特に、人と違った道を行こうとすればするほど、孤独は増します。そして本来、それが自由というものですが、多くの人は孤独の裏にある自由を感じ取れないまま、孤独なプレッシャーに押しつぶされそうになります。最終的には気を病むのがオチです。

堕落者、落伍者、敗北者として孤独に身を浸すのはある意味簡単です。諦めの境地だからです。しかし、現実的な成果や果実を得ながらも孤独に生きる、孤高に生きることは実に難しいことです。しかしながら、そういった人間のパフォーマンスは他を凌駕し突出しています。サッカー選手で言えば、中田英寿や本田圭佑あたりがそーゆーものを持っているでしょう。彼らには生き方レベル、哲学レベルで差別化されたものが存在します。精神性、思考から違うわけですので、特に土壇場などでは眼を見張ることをやってのけます。彼らがアスリートという枠を越えた領域でも成果を出せるのには、理由があるわけです。

孤独というのは、自分の頭を機能させる前提条件になります。自分で考えるための必要条件です。これをガチでやると、自分と世間とのギャップが開き、人によっては恐怖に囚われます。自分が見境がつかなくなっているのでは、と考え始めます。実際、見境がつかなくなって結構なことをやらかす人は多いです。クリエイティブなアントレプレナーに、なかなか危なっかしいのが多いのは偶然ではありません。しかし、人はその領域で絶妙にバランスを取る人をセクシーだと感じるものです。色気を感じるのです。魅了されてしまうのです。

なぜか、私と友達になりたそうな人、私と実際に会って仲良くなりたがる人がここには多く集まっている気がします。しかし、断言しましょう。私が受講生とお友達になることはまず無いですね。友達になったこともありません。それは、私のためでもありますし、あなたのためでもあります。

私は孤独と向き合ってきました。あなたも是非、孤独と向き合ってみてください。ここにちゃんと向き合えないと、結局、何をやっても折れてしまうかなぁ、と思いますよ。

 

若いうちは、人間関係を「黒か白か」で考えがちです。仲良しこよしか、完全に距離を置くか、みたいなね。ところが、大人になるとみんなグレーゾーンで人と付き合いながら関係を持っています。

というか、大人は基本的にみんな、グレーで生きているものですね。態度というか、生き様としてもね。純粋なピュアと真っ黒があるとしたら、みんなグレーゾーンで生きてますね。薄いグレーゾーンで生きているのが大人という感じ。

別に心に闇があるというわけではないけれど、この、薄いグレーゾーンというものを受け止められないまま、過剰なピュアさを持って大人になっている人は苦労していますね、昔の私も含め。こういう人に限って、からに閉じこもったり、仮面の自分を標準装備していたりするわけですが、薄いグレーゾーンというものに過剰反応しないようになることが、大人になるということかもね。潔癖になりすぎないといいうか。

「あの人は良い人か悪い人か」みたいな問いの立て方も微妙ですね。みんなダークサイドもあるし、ライトサイドもあります。ケースバイケース、相手や状況次第でいろんな態度を使い分けます。それが人間です。みんな良い人の顔と、悪い人の顔を持っています。

 

自分は孤独だ、と感じているあなたへ。

あなただけじゃないです。

みんな孤独なんです。

 

その感じる度合いや、孤独感の処理の仕方、割り切り方、捉え方が違うだけで、みんな孤独なんです。

みんな大なり小なり孤独です。

 

そして、大人はみんな、深層の部分での孤独感は拭えない現実を直視し、対峙しながら生きているもので、それがある意味大人になるということでもあるのです。大人として生きる、自立するということ。

そこの「弱さ」を埋めたいが故に、神や酒や女や何かにすがる人はたくさんいます。

 

でも私はある時に気づきました。

「あぁ、自分なんだ、自分に賭けるしかないんだ」ってね。

 

そこではじめて、真の意味で大人になれたような気がしました。

そしてその瞬間から、あまり、異性への恋愛感情などにも執着しなくなったように思います。

 

人は、人に対して愛情や希望をかければかけるほど、それが返ってこなくなった時に強い憎悪や嫉妬などを感じます。見返りを求めるものです。しかし、そういうものからも解放された時、人は本当の意味で自由になるような気がします。

 

寂しさを感じなくなった人間が、人の温もりに過度に喜んでしまうことを手放した人間が、一体、恋愛などに何を求めるようになると言うのでしょうか。

 

結局、与える人間になるしかない。

人に愛を与えるしかない。

人に価値を与えるしかない。

 

自分の深い部分を「満たして!満たして!」と叫ぶのではなくて、人に関心を当てて人の何かを満たす人間になるしかない。

 

その瞬間から、自分の中でのあらゆるものに対する定義が変わります。

 

好きな仕事は、「楽しませてくれるもの」「何かをくれるもの」ではなくて、「自分が愛情を注げるもの、興味や情熱を注げるもの」へと変貌して行きます。

好きな人は、「自分を好いてくれる人」「自分を愛してくれる人」「自分を理解してくれる人」ではなくて、「自分が好意や愛情、興味を注げる人、理解を示そうと思える人」へと変貌して行きます。

 

主体的に生きるというのはそういうことでしょう。

そして、真の自由とは、まさにそういうところにあるのでしょう。

 

自由は、孤独感を打ち破った先にある世界です。

 

孤独だからとひねくれてふさぎ込むのではなく、

孤独を受け入れて人に何かを与える側になった人間、主体的に生きられるようになった人間が手にできるものです。

 

ある意味、悲しみの向こう側の世界のような気がします。

 

依存を恐れて、自立に走る人は多いわけですが、それと「孤立」は違う話です。誰だって、誰かと、何かと関係を持たずして生きて行くことはできません。

依存の対極としての「孤立」も間違っているでしょう、きっと。

 

相互依存を目指さなければなりません。

自分も高度に自立をしながら、他人を必要とし、他人に必要とされる生き方。

それが理想でしょう。

 

他人との距離感を上手に築けるようになるということでしょうね。

自分の中で、その点について、精神的な次元で良い感じの折り合いをつけることでしょうね。

 

昔、一度だけ、「あぁ、この人は自分の理想とするような生き方に似たような方向性で生きていてすごい!」と思うベンチャー社長と食事をさせてもらったことがあります。

彼は、とても丁寧で、優しくて、物腰柔らかくて、素晴らしい方でした。

本当に、人格者という感じ。

 

でも、彼の目の奥には、何か、悲しみが見えました。

それは、闇とかそういうものではなかった。

 

なんだろう・・・・・・・・・

孤高に生きる人間が持っているであろう、人知れぬ弱い部分。

誰にもわかってもらえない部分。

 

それを、一人で抱えて、そしてそれを乗り越えて、人に価値を与えるという高いステージに昇華している人間が持つ、異様なオーラがあった。

悲しみを前にして、普通はひねくれたり、間違った方向に行くんだろうけど、その人はなんというか・・・・

それを乗り越えて、踏まえて、先に行っている感じがした。

 

強さと優しさを感じました。

 

自由と孤独というのは、セットで語るべきテーマだな、と個人的には思いますね。


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。