デスティネーションを作ろうとして書いた文章2

 

現在の死刑について実務上の話をすれば、日本では死刑判決から執行までに10年〜20年かかるケースも少なくない。裁判所での判決確定後、法務大臣が印を押さない限り執行できない。刑事訴訟法では、6ヶ月以内に法務大臣は執行しなければならないとあるがこれは守られていない。以前は、死刑囚に事前予告をしていたが、自殺する者が出たので、現在は当日朝に言い渡しと執行がなされる。また、土日祝日は執行されないというから、緊張と緩和の連続の中、ある程度の期間を経て突如朝に宣告執行を行う。死刑囚は狭い独房に閉じ込められっぱなしであるため、精神障害をきたす者も多いという。この意味で、実は北朝鮮や中国のようにさっさと銃殺してしまう国と比べて、執行手段の現実としてかなり残酷な要素がある。実際の執行の際も、やけに行儀よく取り行ったり、最後に好きなものを食べさせたりタバコを吸わせるというから、余計に残虐さが引き立つものがある。ちなみに検察官は執行の瞬間立会いを行い、医師は死亡確認を行う。

絞首によって首の動脈と静脈が閉じられると、脳に血液が行かなくなる。5秒から8秒経つと、脳に残留していた酸素が無くなり、意識を失うが、それでも酸素供給が行われないとやがて脳細胞が死滅し始める。元に戻らない重大な脳障害が発生するのは3分程度である。5分経つと人体の司令塔である脳は完全に死滅し、司令を失った心臓も停止する。絞首刑を実行した場合、受刑者は床が落ちてからも5〜8秒ほど意識があるのであり、受刑者が瞬間的に意識を失うのは延髄損傷・圧迫を伴う椎骨骨折の場合だけであるが、これで死ねるか5〜8秒ジタバタして死ぬかはランダムである。瞬間的に死ねるというのは嘘だ。気管の閉塞による酸素供給不能、神経系の損傷による急性心拍停止が死因の場合もあるが、どちらにせよ実際の死刑の際には何が起こるか選べず、また、首に全体重がかかるため場合によっては首が引きちぎれるケースもある。

脳に血液(酸素)が行かない、呼吸器が閉じられて酸素供給できない、神経系(司令ルート)が死んで内臓停止、延髄(神経の中継地点)の損傷、人体の物理的破断。絞首刑による死刑がもたらす生物的な死因はいずれかだ。刑罰が与える社会的な死は、警察による身柄の拘束から、送検、裁判、拘置所というプロセスを経て、以上の理科的な死因で絶命する。これを被害者遺族・加害者遺族は見届けられず、拘置所長、文系トップエリートの法曹(検察官)と、理系トップエリートが立ち会う。処刑に従事した刑務官には執行手当2万円が手渡され、その日は精神的ダメージに配慮し早退させられる。

死刑は医学的(人体構造)に「死とは何か」もまた考えさせられる。人がなぜ、どうやって死ぬのかがわかる。

基本的に医師は、(死刑に限らず)死亡確認を瞳孔散大(対光反射消失)、呼吸停止、心停止の3つで行う。

人間の感覚器の中で最も多く情報を得ているのが視覚だが、「対光反射」に反応が無いということは感覚器が機能していない=動物としての死を意味する。暗闇で何も見えないように、何かが見えるとは光が見えることを意味する。その光に反応しないのだから、視覚は機能していない。

多くの人にとって、感覚器の中で、機能しなくなると最も絶望するのが視覚であろうが、比喩的にも「明日が見えなくなった」というような表現が絶望のメタファーで使われる。

目は光の受容器官であり、「光が見えなくなった」という表現もまた、絶望を意味するものである。会社でいえば顧客ニーズがわからない、市場トレンドが全く読めなくなった、顧客情報を取れなくなったという感じだろうか。マーケティングデパートメントの死亡である。光とは物理学的に波であるため、「波が読めなくなった」とパラフレーズすれば、不思議と一致してしまうから面白い。死とは見えなくなることでもあるのだ。

目と脳は、「視神経」と「動眼神経」という2種類の神経でつながっている。目に入った光は、視神経をとおって脳に刺激として伝わり、脳は、脳から出ている動眼神経をとおして、目から入る光の量を調節する指令を出す。その指令によって、虹彩が縮んだり、緩んだりさせることで、瞳孔の大きさは変わっている。脳の機能が止まっていることは、目に光を当てても瞳孔が開きっぱなしであることから、判断できる。

いわゆる植物状態というのは、心肺機能や、対光反応を司る「脳幹」は生きているが残りの脳機能は死んでいるという状態で、循環器や呼吸器は機能している。コロナウイルスでロックダウンしている街のようなものである。スーパーや警察は空いているが、後は全部閉まっていて事実上機能停止という感じである。基本的・最低限の機能(これが脳だと脳幹)は生きている。「脳死」の場合は、循環器も呼吸器も止まり、人体はダメになっていくから火葬なり埋葬なり、処分しなければならない。脳の全体死であり、名実ともに脳の終わりである。

肺の中の樹形が、自然界の樹木にそっくりなのは偶然の一致ではなく、表面積を大きくするための設計である。

人体というのは、呼吸停止をしていても、心停止が無ければ酸素供給・人工呼吸などで蘇生可能であるが、心停止の場合は4〜5分以上経つと中枢神経・脳は元に戻らない障害を受けるので、AEDなどの救急蘇生措置はスピードがモノを言う。会社でいえば呼吸停止が売り上げの停止や赤字、心停止がファイナンスデパートメントの死亡・キャッシュフローが回らない状態である。

企業の場合、全業種平均で、売上高総利益率(粗利率)が約25%、売上高経常利益率・経常利益率・当期純利益率が3%前後であるが(上場企業の業種ごとの最終利益平均は、サービス業の平均は4%前後、小売業の平均は2~3%前後。卸売業は3~4%前後、不動産業の平均は7~8%前後、銀行業全体の平均は10~15%)、売上高固定費率平均が大企業で約15%、中規模企業で約20%、小規模企業で約30%であることを鑑みると、売上高を100万円で換算すると15〜20万円は固定費となり、25%の粗利を3%まで落とす差し引き22%分の販管費及び一般管理費は100万円ベースだと22万円、合計して売り上げ停止というの名の呼吸停止では約40万円のキャッシュアウトが生じる。販管費の大半が人件費と家賃、広告費、水道光熱費だとするとほぼ削減できないだろう。売上規模に対して40%程度の流出はどうしても避けられないのがわかる。年間で蓄積できる利益剰余を3万円だとすると、15年の積み上げがある企業でも心肺停止に耐えられるのは約1年である。日本一のキャッシュリッチ企業である任天堂の累積キャッシュが1兆円程度、年間売り上げがおよそ1兆2000億円、営業利益3000億、経常利益2900億、最終利益2000億程度であるが、任天堂レベルでも自前の蓄えでは2年程度が限界、融資で延命してもその2倍程度の4年が限界だろう。

大抵の企業は、半年でも1年でも「心停止」が起これば致命傷である。

7割が役職無しで定年退職を迎えるという日本では、世論が「経営感覚の無いサラリーマンの論理」で形成されるが、「都市封鎖」「ロックダウン」などを半年でもやれば、大変なことになる。大恐慌が起こって暴走、一揆、革命、急進的な勢力の頭、など何かしら起こりかねない。

昔と比べて、末端労働者、非正規労働者の論理が政治力を持つようになってきていることに注意が必要であろう。(大多数が高齢者と女性だろうが)「労働者の4割が非正規」と言われる時代において、心情的配慮に欠いた正論は要らぬ怨恨を買う可能性があるし、逆にポピュリズムが台頭する危険性もある。

太平洋戦争においても、資源の無い日本は初期の6ヶ月程度こそ好調だったものの、以降は地獄の泥沼に突き進んでいき、3年8ヶ月に及ぶ戦争を終えて米国の経済力を思い知ることになる。資源の乏しい激戦だった沖縄戦は約3ヶ月、硫黄島の戦いは約1ヶ月であった。コロナウイルスなどで政府行政が強権的に経済を停止できるのは3ヶ月程度が限界だとわかるだろう。

当社の2019年度の経営状況は、売上高が約900億円、営業利益が約70億円です。簡単に言えばその差額の約800億円以上のかなりの部分が人件費や機材費などの固定費です。1カ月当たりになおすと月約70億円。当社の現預金は現在約100億円ですから、それだけで維持できるのは2カ月弱、融資枠が200億円ありますが、それを入れても4カ月余りで尽きてしまいます。

ー佐山展生(スカイマーク会長、コロナで全便欠航になると航空会社は何ヶ月で潰れるか、についての質問に対して)

 

人体では、心肺停止に陥ったあと、救急蘇生措置が1分遅れるたびに救命率(社会復帰できる率)が7〜10%程度下がっていくため、10分経つとほとんど助からない。自分は医師じゃない、看護師じゃない、医療関係者じゃない、とこの程度の知識さえ持っていなければ、同居している人間を救うこともできないだろう。1個人で見た時、人の容態が急変する7〜8割は自宅である。

また、同じ空間にいる、同居しているという場合、目の前で容態が急変したのに救急車を呼ぶなどのしかるべき措置を取らなかった結果、死亡した場合には保護責任者遺棄罪に問われる。パパ活中、不倫中、援助交際中などで、急に相手が容態変化して怖くなって逃げた女性がこれで逮捕されることは多い。

生き物は簡単に死ぬ。

骨格を見ていくと、ぐるりと一周、内容物を囲むような形になっているのは頭蓋骨と肋骨だけである。この設計・構造は、脳と心臓がもっとも重要であることを意味している。この骨は、大事な器官をガードしている。人体は「保護」と「運動性」のバランスが取れた美しい設計である。

では、男にとって大事な器官と言えるペニスも、どうしてそのような設計になっていないのだろうか?これは説明するまでも無いだろう。伸び縮みに不便だし、柔軟性を失うからだ。例えば脚や腕にも頭部(頭蓋骨)・胸部(肋骨)と同じような「包容的骨格」設計がされてしまった場合には、柔軟性や運動性が損なわれてしまうことも想像できるだろう。

「首が危ない」のは、明白である。脳からの司令は首を通るが、ぐるりと骨で保護されているわけではない。なぜなら、首には周囲を見渡す可動性・運動性が必要だからだ。人間の頭部には視覚、聴覚、味覚、嗅覚と感覚器が集結しており、これを左右に振って外部状況を把握する設計になっている。ここに感覚器と運動器の連携が見て取れる。そしてこの連結部分が危ない。「プロの殺し屋」は首を狙う。

首は保護性に欠けており、なおかつ司令部からの命令が走る大道路で、骨を折ると周囲を走る神経を傷つけてしまう恐れがある。首をやってしまって下半身不随になったりするのはそういうことである。首の骨から腰の骨に至る脊椎骨(頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎)を怪我すると本当に危ない。

運動神経が良い人はこのことを本能的にわかっている。頭に関しては銃で撃たれるような状況ではない限り、分厚い頭蓋骨が守ってくれる。危ないのは首や背骨である。私が小学校の時、

地震が起きたら頭を手で押さえて(被れるものがあれば被って)机の下に隠れろ、

みたいな教えを受けたが、首や背中もなかなか危ないと思う。運動神経の良い生き物である猫を、空中で背中から落とすと、高速で体をよじって手足をうまく使って着地する。人間も、運動神経が良い人は背中・後頭部から落ちるのがやばいと本能的にわかるので猫のように体を即座にねじる。ところが、運動神経が悪い人はこれが全くわからない。よって、このタイプがバク転の練習などをすると本当に危ない。

体の前部は視界に入り手足も向けられるが、後ろは見えないし手足を持っていけない。だからこそ、私に言わせれば、「運動神経が良い人」というのは、頭・首・背骨・腰が人間の弱点であることを理解して、特に後背部は危ないことを理解して、「常に首を振って周囲の状況を確認」し、「脊椎骨」を回転軸として常に意識できる人だと思う。脊椎骨の骨折になりそうな事故の時に、手足の骨折に持っていける人が運動神経が良い。一番、バク転の失敗のように、後頭部45度から落ちるのが危ない。この危なさを、本能的にわからない人は「たまたま運よく怪我していないだけ」であり、何かあったら下半身不随になってもおかしくない。私は、ボディコンタクトがある、フィールドプレー系の部活出身である。小学生の頃、高いところに登ったり、木登りをよくしていたが、ふとした拍子に滑り落ちたときなどは一瞬の判断が人生に関わることを体感的に知っている。また、顔も顔で五感が集中しており、危ない。いかに手を使ってガード・避けるか、いかに首を動かし、脊椎骨軸を回転させて避けるかである。ただ、手足もまた、もげるような事件・事故だと大惨事なので、一番はいかに周囲を把握して、「察知・逃げる」かである。

10代はフィジカル的に最も強いのだから、この時期にいろんな経験をしておくと、ものすごく感が良くなる。「茹でガエル効果」でなかなか気づかないものだが、10代の時は五感がかなり鋭敏で、それゆえに感受性が強く思い悩みやすいぐらい鋭敏だ。この時期に身につけたフィジカルなセンスは一生役立つ。

私は昔、バイクに乗っていたが、身体をむき出しにして高速で走るので、何かあれば脊椎骨系がぐちゃぐちゃになることなど平気でありえる。プロテクションも大事だが、一番は「周囲の状況確認」であり、私はライダー時代には死ぬほど首を振っていた。半径500mの運転席の人間の属性全て把握しチェーンリアクションも読んでいた、というぐらいだった。私は何をやっても「勘が良い」「鋭い」「気づく力が高い」と評されてきたが、ティーンエイジの部活(フィールドプレー)とバイクを乗り回していた経験の賜物であり、「一歩間違えると重大な事故」という世界で感覚は研ぎ澄まされる。

私は車とバイクの免許を持っているが「刑法犯遭遇率35%off」「公務員と絡まない」というメリットを取るため、既に述べたが今はほとんど運転していない。運転していた時代に「交通社会」を観察して経験的に学習したのは、

  • 高齢者は危ない(認知、反射、運動、全て終わってる)
  • ヤンキー、ガラの悪い男は危ない(暴力的、感情的、自信過剰・ルール無視気味の運転)
  • 若者が集団で乗って楽しくおしゃべり、音楽ガンガン系は危ない
  • タクシーは危ない
  • 深夜は飲酒運転っぽい車が稀にいて危ない
  • バスや大型トラックは視界が遮られて危ない
  • 雨や滑りやすい土地は危ない

というもので、実社会のメタファーそのものであった。これはパラフレーズすると、「機能弱者」「自信過剰」「集団的無知・愚行」「強欲・焦り」「酩酊」「視界不良・情報不良」「環境条件不良」というものであり、あらゆる事故(accident)に通ずるものだ。また、様々な人種と付き合ってきて思うが、これらの項目に該当する傾向がある人といる時間が長くなれば、巻き添え事故を食らう確率もぐっと上がる。わかりやすい例が交際・結婚であり、これらに該当する女と生活を共にすればaccidentばかり持ってくる。人が病気以外では、事件と事故で死ぬとしたら、事故をもたらす人為的な理由、ヒューマンエラーの呼び水がこれらである。どんなシチュエーションであれ、これに該当する人間は総じて危ないと私の人生経験から言える。当ててくる、当て逃げしてくるような連中はこのどれかだ。交通社会で圧倒的に無防備であるライダー経験を通してそれらを察知する能力が異様に発達してしまった。人間は、危機を身体で覚えると勘が研ぎ澄まされる。危ないことを死なない程度にやっておくと頭が良くなる。命がかかると賢くなるのである。おそらく、生物としての本能であろうが、危機や危険の中では記憶力が高まる上、五感が鋭敏になる(深夜に路上で後ろから話しかけられると敏感に反応してしまうのは危険性が高いと本能が反応するからだろう)。おかげで、今でも、そういった危機の兆候を察知する能力が高い。特に対人について、「やばい人間」を見極めて手を打つのが早い。

公道では人間の性格が出るが、圧倒的にハンディである立場に立つと、他者の性格を把握し状況を理解するという感覚察知能力が優れ、頭が良くなる。そしてこれは、人類が進化してきたプロセスそのものでもある。人類も大型捕食獣を恐れて感覚器・思考を発達させてきた。

おそらく、若いうちに何らかのフィジカルな活動を行い、思索してきた人は、私が思い至ったようなことにも必然的にたどり着いているはずである。人体の構造は皆一緒だ。

  • 【状況把握】 常に首を振って周囲を確認
  • 【基盤土台】 高いところ、滑りやすいところ、バランスを崩しやすいところは最も危ない
  • 【致命傷・バッドシナリオ】 後頭部45度から落ちるようなケースが一番危ない
  • 【被害最小化】 脊椎骨を回転させる能力、猫のようにどの角度から落ちても手足から落ちる能力が大事
  • 【生贄】 手足を使ってガードする、避ける能力が大事
  • 【重要拠点】 頭部は頭蓋骨で守られているとはいえ、五感が集中していて危ない
  • 【死角】 背後は見えない、手足が出ないと最も危険

 

ちなみに、子供ができると、たいていの父親は、子供が公園のアスレチックの高いところから落下したのをスライディングキャッチした、みたいな経験があるものである。意外と都会民ほどこういうことがわからないものである。

キムタクの娘が、「パパかっこいい列伝」として、子供の頃に後頭部から落下した際にキムタクが走ってきてスライディングキャッチした話を語っていたが何ら珍しく無いありふれたエピソードである。私の親や親戚ですら同じ話をしていた。聞くところによると、子供は後頭部から落下することに恐怖を感じないらしい。

工藤静香以下、娘共々、一部世間から反感を買っているが、「自信過剰」「集団的無知」「視界不良・情報不良」に陥っており、状況把握能力に欠ける傾向はある。ボンボンの世襲10代と専業主婦ではバカになるのは致し方ないが、アクシデント・インシデントを呼び込む条件が揃っているから、いつか、ベッキーや矢口真里のようにやらかすかもしれない。ベッキーは川谷絵音騒動以前は好感度タレントトップランカーだったが、私は懐疑的に見ていた。なぜなら、彼女は「自信過剰」だったから。テレビで親の子育てとポジティブキャラクターが賞賛されていた時代もあったが、現実を都合よく捻じ曲げる癖がある女だと感じていた。

私が管理職をしていた時代、さらにその上の人間に毎日のように話をされていたのが、ハインリッヒの法則だった。「1つの事故には必ず無数の小さな気の緩み、前触れがあるからな」が彼の口癖だった。部下をマネジメントする際、「やらかす人間」は必ずその兆候があるから目を光らせておけ、という指導をされたが、本当にその通りで、私にとってマネジメントは、できる人間は自由放任、できる人間に育てるには自立自走を目標に「優秀な人間に囲まれて負担が減る」を目指す、そして、一番は「問題児」をいかに視界に入れ続けてマークするか、という赤ちゃんの子育てのようだった。人材ビジネスのジャニーズ事務所総帥がジュニア部門にいつも陣取っていた理由がわかる。教育で大事なのは「ジュニア」なのである。できない人間と膝を突き合わせて徹底的に向かい合った経験から言わせて、「できない人間」のほとんどが、仕事以前のレベルで問題を抱えていた。思想、世界の捉え方、人付き合いへの姿勢、何らかひねくれているケースが本当に多く、誰かに深いレベルで向き合ってもらったことが無い人間ばかりだった。今の今に至るまで本当に役に立っている。

「金」「女」のobtainerとして成功するためには、その過程で、人を見る目を発揮して事件事故に巻き込まれないようにしなければならない。

 

「絶対に俺の後ろに立つな」

 

「経験の浅い女がさも経験豊富なように振る舞う、白けるものだ・・・・」

 

「ふふふ・・・・女は信用しないことだ」

 

「もういい……二度三度とつづけて味わえる女は……そうざらにはいない…」

 

「誇りは気高いが過剰になれば傲慢だ」

 

「”男”………なら、他をあたってくれ………少なくとも、”女と暮らしてもいい”と思っている男をな………」

 

「子が生まれたら犬を飼うがいい。

犬は子より早く成長し子を守ってくれるだろう。

そして子が成長すると良き友となる。

子が青年となり多感な年頃に犬は死ぬ。

犬は青年に教えるのである 死の悲しみを」

ーゴルゴ13

 

 

絞首刑が縄1つで人を殺せる理由がお分かり頂けただろうか。他のどの部位をロープで縛っても絶命しないはずだが、首だけは殺せるのである。素手で人を殺そうとしても、狙い所は首になる。逆に言えば、「高さ(重力)」と「首」は危ない。

 

日本弁護士連合会によると、国連は全ての国に対して死刑廃止に向かうことを求めており、現在では世界の7割以上の国が事実上、死刑を廃止しているという。EUでは死刑廃止が加盟の条件になっている。国際社会の中で、毎年継続して死刑を執行している国は十数か国にすぎないが、日本はその十数か国の一国だという。世界で死刑を経験していない国は無いから、多くの国が変更してきたことになる。

 

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/shikeiseido_yesno.pdf

日本政府は、

「国民の多数が、極めて悪質、凶悪な犯罪については、死刑もやむを得ないと考えており、特別に議論の場所を設けることは現在考えていない」

と説明している。日本政府の言う「国民の多数」とは、2014年11月の内閣府世論調査にて、80.3%が「死刑もやむを得ない」と回答したことに基づいている。つまり、この国の80%の国民は死刑を肯定している。選挙等々もそうだが、大々的に実施される国家的イベントや、世論調査からはこの国の国民性が透けて見える。

日弁連によれば、「死刑もやむを得ない」と回答した人に対して、

「将来も死刑を廃止しない方が良いと思いますか。それとも状況が変われば、将来的に死刑を廃止しても良いと思いますか。」

追加質問をすると、「将来も廃止しない」が57.5%、「将来的には廃止しても良い」が40.5%、「わからない、一概に言えない」が2.0%だったという。追加質問をすると、死刑賛成派の40%が揺らぐ。

まとめると、全体では、

  • 現在も将来も死刑廃止に反対 46.2%
  • 現在または将来、死刑廃止に賛成 42.3%
  • わからない・一概にいえない 11.5%

ということになる。強硬派は実質半数以下だ。

要するに死刑賛成派の多くはテキトーなのである。そして、彼らが考える「将来」「状況」について突っ込んだ質問をすると、おそらく具体的な答えは返ってこないだろう。人を殺した人間は相応に刑罰を受けるべきという応報原理が変わる「将来の状況」とは一体何のことだろうか?なぜ賛成派の40%は一貫していないのか?なぜ変わる余地があるのだろうか?

(1)世論の多勢が変わったから自分も変えよーっと
(2)自分は賛成派だけど、自分が死んだ後の世界とかでは変わるかもしれないし変わっても良いんじゃない?そん時は容認するよね
(3)自分が死刑に賛成する理由・論理が曖昧だから、「将来の状況の変化」によって自分の理由・論理が変化するかもしれないけれど、それが何なのかも自分でよくわかっていない、そもそも今賛成の理由・論理もはっきりしないのだから。

のどちらかだろう。しかし、(1)は付和雷同すると言っているので独立した意見として成立しておらず、(2)は自分の死後など直接的には無関係な世界において「好ましいか、好ましくないか」という評論、当事者性を無くして客観的に社会システムとしてどう思うかという点であるため、応報としての死刑である種のカタルシスを感じている、あるいは自分が当事者として生きる今この世界における死刑の抑止効果や、自分への不利益防止への期待があると推測できる。だが、繰り返しになるが死刑は抑止力になっていない。

つまり、テキトーである。他人の考え、世論がそうなったらまぁ変えてもいいよ、ということだろう。あるいは、お守り感覚である。あるいは、誰かが死刑に処せられるのを見て楽しいのだろう。「カイジ」よろしく、死刑は日本国民にとって一種のエンターテインメントと化している感もある。また、日本の支配者階級が、死刑によるカタルシスや国民感情の雲散霧消を狙って、本質的な問題に目を向けさせないようスケープゴートにし、論点ずらしをしている感がある。

 

 

日本人の多くは、他人の命など、他人事でどうでも良いと思っている民族。命について真剣に考えることも苦手な民族。「大多数」は「平和」で「普通」に暮らせているのだから、そこから漏れた人のことなんて知らない。社会的制度にも興味ない、普通に生きない人間が悪い。面倒臭い事や難しそうなこと、突っ込んだら自分が批判を受ける可能性があることに触れたく無い民族。簡単に言えば、大衆の空気が集団リンチ的になり、「誰かを殺せ!」となれば、みんなで火炎瓶を投げる民族。戦時中からそうだった。死刑制度と国民国家論から透けて見えるのはこの国の国民性。この手のアンケートを「トラップ型アンケート」として捉えなおせば、普段は覆い隠している日本人の本性、思考パターンが浮き彫りになるのである。

日本は生きづらいと感じている日本人の多くは、そのほとんどが自分も「死刑賛成の80%属性側」に深い考えなく属していることが多いが、いわば、「まっとうなこと、正しいつもりのこと」としての思考停止的に死刑賛成に票を投じるような自称まとも精神と、日本的生きづらさがブーメランで返ってくる日本的世界は根底で同じなのである。鮭とイクラぐらい同じである。

「相応のことをしたのだから相応の罪に服するべき」

という日本人の考え方は、ブーメランとして必ず返ってくる。「会社でこれをやらかした人間はクビ、再起不能、なぜならみんなこれを守っているから、これが社会の当たり前、相応だから」となれば、相応の罪になり、罰が与えられることになる。この国を支配する「たいていのそれっぽい理由」は、風向き、大衆の空気である。こうして首を絞め合う世界に生きる。ほとんどの人間は死刑に値する罪はおろか、犯罪すらも侵さない。しかし、何らかの社会悪や、劣等や、これに類似するものに対して、「自業自得でしょ」「自己責任でしょ」という日本国民の攻撃の被害者に誰もがなる。なぜならほとんど全員が加害者だから。貴方が海外で拉致されてテロリストに殺されても日本人は救わない。貴方がババア、ジジイになれば糾弾され、独身であれば奇異の目で見られ、ホームレスや無職になれば冷たい目を向けられて、追い詰められて自殺すれば「もっと綺麗に死ねよ」と思われる。

日本人はハンムラビ法典型、イスラム諸国型である。特にイスラム原理主義の過激行動を日本人は笑えない。彼らがやっていることは太平洋戦争中に日本がやっていたこととそっくりである。

死刑賛成80%に合理は無い。そして、我々はそういった80%の人間が跋扈する世界で生きているのである。

日本で生きるならばこのことについて覚悟しておいた方が良い。

ー西園寺貴文

 

ゴキブリに例えてみよう。

「凶悪なゴキブリは死ぬべきだ」が日本人の基本発想。「凶悪なゴギブリを殺さなければ、夜も眠れない、気持ちが収まらない」がその理由である。「ゴキブリを殺さなければ、繁殖してしまう」と考え、仮に「生かしておくとまた出てくるから殺せ」、と考えている。お気づきだろうが、なぜゴキブリが出てくるのか考える人間はいないのである。とりあえず見たくない、気持ち悪い、殺せということである。

日本人の80%は対症療法的なカタルシス発想である。これが80%の日本人の思考レベルであり、この国の正体である。「人を殺したような人間は殺して当たり前だ」という最もらしい大義名分を前にすれば、追い風を受けて勢いづき、たとえ人命レベルの問題であっても80%の人間は現象反射的に答える。このうちの40%程度は「将来」「状況」が変われば死刑を廃止しても良いと言うが、なぜ「未来永劫」では無いのか、具体的に「将来」「状況」とは何か。ここに日本人の思考の浅薄さが見て取れる。言うまでもなく、ここで言う「将来」「状況」が変わった時というのは、どうせ「世論の風向きが変わったら」程度のものに違いない。

念のため、日本では大卒未満・大卒以上がそれぞれ半々程度であることも補足しておく。公務員系の専門学校や大学に行かなければおそらく法学に触れる機会は無い。

特に低年収層はこの手の近視眼的発想が多く、例えば選挙に関して「どうせ何しても変わらないし、行くだけ労力と時間の無駄だから行かない」と考え、飲食店が無料サービスキャンペーンをやっていたら行列を作って並ぶ。基本的に起業行為は社会的課題の解決でもあるので、「半径3mの自分に得がある目先のことしか興味無い」というこういうタイプは負の貧乏スパイラルにハマる。日雇い労働体質、ラットレース体質になる。かと思えば、自称知的人はスケールがでか過ぎて天下国家のべき論ばかりに終始して大学の授業の範囲を抜けきれておらず、「何も物事を動かせていない」まま終わって、休日に大前研一の本を読んで恍惚感に浸って終わる。この中間に位置する、自分の扱える最大級スケールでの自由研究と営業行為の正のスパイラルが起業行為であり、社会階層逆転、リッチになるためのヒントである。多くの日本人がこのことに気付いて、official、メインストリームのレールから少々外れた程度で絶望しない世の中を作ることは、凶悪犯罪を防ぐ一助になると確信している。

富、名声、力、女、職業、社会構造などに満足している、という人で凶悪犯罪を犯す人はほとんどいない。

 

アメリカでは被害者遺族が死刑を見学できたりするが、日本の刑執行はクローズドに行われる。復讐行為で世の中が荒れることを防ぐ私刑禁止を目的としたら、当局監督の下、手段を限定するなどして遺族に私刑の機会を与えれば良いが、それも無い。となると、被害者遺族への心情配慮は別次元のケアの問題になってくる。死刑囚を世の中に放流する危険性は終身刑で対応すれば良いし、死刑レベルの事件を起こす人間の動機は「絶望」「社会の全否定と反抗」「死の希求」であったりするから抑止力には疑問符がつく。もしかすると潜在的な死刑犯罪の多くを未然に防いでるのかもしれないが、ではなぜ世界は残虐刑罰から逆行してきたのか。

これまで、死刑の犯罪抑止力を統計的に証明しようとする試みが多数なされてきているが、いずれも証明するに至っていない。カリフォルニア大学のアーチャー教授ほかは、1984 年の著作「暴力と殺人の国際比較」 (目本評論社、原著 1984 年)において、死刑廃止前後の殺人率の変化を国際的に比較する研究を行い、110 の国々と 44 の主要都市における犯罪と暴力のパターンを 1900~1970 年までにわたるデータ集に基づき分析を行った。その結論として、次のように述べている。

「用いられる限りの証拠では、抑止効果はまったく存在しないということが示唆されている。そしてたしかに、死刑制度を正当化するような、その強さからも規模からも十分なものを示すほどの抑止効果は存在しないのだ。」

 

私から言わせれば当たり前である。死刑を抑止力に感じるような人間が死刑レベルの犯罪を犯さないのである。「死刑怖い、死にたくない、だから死刑犯罪は犯さない」と考える人間は死刑犯罪を犯さない。それでも犯す人間が死刑囚として該当していて、これを死刑で排除する対処は対症療法以外の何物でも無く、「死刑レベルの犯罪の発生を未然に防ぐ」を実現しない。

 

本当に死刑レベルの犯罪を止めたいならもっと他にやることがある。本当にこの国は、凶悪犯罪を止めたいと思っているのだろうか?

一般的感覚からすれば、「残虐刑というペナルティがあれば抑止できるだろう」と考える。しかし、相模原障害者施設事件(2016年、19人殺害)の容疑者は、獄中で自分で指を噛みちぎっている。こういう人間が事件を起こすのだから刑罰に残虐性を極めても抑止力は無いと推測される。

 

首をスパスパはねていた戦国時代でも恐怖で争いが止まったことは無く、世界大戦中もそうであった。「恐怖」の概念が通常のそれとは違うレベルに達している人間が、エクストリームな手段に走る。

EUが加盟条件に「死刑廃止国であること」としているのは、「応報刑論に害された知能レベルの国と一緒になりたく無いから」である。なぜなら、ヨーロッパはひたすら「やられたらやりかえせ」の泥沼に突き進み地獄の果てまで荒廃した歴史を持つからである。ヨーロッパは血塗られた土地だ。

 

 

人生で恐れるものは何もない。理解すべきものがあるだけだ。

ーマリー・キュリー(キュリー夫人)

 

 

日本で生きづらいのは当たり前である。

死刑論から見えるのは、「最もらしいテーマ」を前にして日本人がどう考えるかというある種の本心調査である。この手の議論には見方を変えればトラップ性があるため、我々プロフェッショナルマーケターは、常にこういったデータをリサーチして別のアングルからプロファイリングしている。

社会悪を前にして、大義名分と、多勢があれば、例え究極的なペナルティであっても実行せよ、と叫ぶ。しかし、そのテーマについてはぶっちゃけよくわかっていない。現象論に追われて、全てを対人帰責して真因を考えない人間で溢れかえっている。そして無関心で付和雷同的な外野と大衆。市民革命をして近代的な国家を作った経験は無く、ただ支配されてきただけなので発想が江戸・明治初期止まり。国民の50%は憲法すら知らない。後述するがそもそも刑法は応報代理刑では無い。

この国の80%の国民を騙すのは簡単である。

「中国が領空侵犯をしているぞ!スクランブル発進をした自衛隊機が墜落した!尊い若い命、未来ある自衛官が死んだ!被害者遺族の会見はこちらです!憂国の志士の仇を取れ!賛同しないものは非国民だ!国民よ、武器を取れ!中国に蹂躙されてしまう!私たちの美しい国を守れ!子供達の笑顔と明るい未来を!私たちの歴史と伝統を!誇りを!それでは芸能人・有名人の皆さんの声です。『こんなことは許せません!みなさん!今こそ立ち上がりましょう!』『みなさん、とうとうこの時がやってきました。しかし、今やらなくていつやるんですか?』『こんにちは、●●大学教授の〇〇です。Let’s 戦争!レッツアンドゴー!ゴーシュート!』『youtuberみんなで歌を作りました! ジョイナス♪安全装置外して♪ジョイナス♪ほら世界と勝負だ♪ジョイナス♪明日の軍神は君かもしれない♪』『日本人は強い!日本人は立派!日本人は崇高!万世一系の歴史!諸外国は野蛮!』」

みたいな、大義名分っぽいことを並び立てて、国の空気が「そういう感じ」になれば、いつでも暴走できる。その時には専業主婦は街路で日の丸をパタパタ振って、パパ活JDが「キャーッ!●●くん第3師団所属の海軍エリートよーっ、結婚したら遺族年金手厚いわーっ、合コン合コンww」と市中で騒ぎ、官僚か政治家が、「えー、戦死者の名簿はちょっと処分したのでわかりません、え?そもそも死んでもらうために送ってません、あくまで自衛ですので、ええ」みたいな感じで適当な答弁をして、戦後生まれのクソジジイが「若者ぉお!戦ええええい!お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖様に奉公じゃあ!!」と煽っているかもしれない。フジテレビの可愛い女子アナが「28時間テレビ 徴兵は国を救う」「思いを一つに、届け戦地へ」とか言ってるかもしれないし、どっかのタレントが「STAY HOME!STAY 防空壕!」と言ってるかもしれない。男子はモテたくて、戦地で「戦地なう」「戦地映え」「血のナイトプール、パシャパシャ」「今爆撃機に乗って空からタピオカ撒いてる任務なう」と投稿するかもしれない。慶應卒エリートあたりが、2ちゃんねるで「中卒って努力足りなくねwwww中卒からまず最前線行ってしねwwwww」とか書いてるだろう。

まぁ、これは半分冗談である。しかしこの国の国民性を描く上で、突拍子もないことは言っていないのが自分で言っておきながら薄ら寒いところである。

 

犯罪者が生まれ、これを逮捕し、別離して、最後に死刑によって取り除くというのは、実は対症療法的なのでは無いか、と私はいつも思っている。死刑囚を税金で食わせる無駄とか、被害者感情どうのこうのの前に、ファーストプライオリティは、「凄惨な事件を起こさないこと」である。少なくとも、そういった事件を起こした人間をマーケティングやプロファイル的に分析をかけて、予兆を止めるような手を打てば良いが、それすらやらない。

なぜか。

私が思うに、それは、不都合な現実があるからである。

日本で凶悪犯罪を犯した人間は、大抵、親が「教師」「税理士」「医者」「公務員」といったような、私が「CーPOP(criminal law、penalty、order、patience for patriotism)」と呼ぶ連中の「落ちこぼれの息子」が多いのである。いわゆるoffiicialな「立派な職業」の親の子である。しかも総じて実家が裕福なのである。犯罪者の多くは、知的水準や能力が低く、社会経済的に失敗しており、これを「他責にする傾向」が強く、決定的な愛情の欠損か、極端な劣等感あるいは自尊感情(もしくは自己顕示欲)が暴走して事件を起こしているが、間違いなく生い立ちは関係がある。医者、公務員、警察官、弁護士、税理士、役所職員、教師などと話をしていたら、「こいつの息子は殺人鬼になってもおかしく無いな」と思う連中は多くいる。実際バカなくせに、自分がバカなことに気付いていない(Titleがあるだけ、取り上げられたら何もできない)という点で、実は私が事故の原因と呼んだ、「機能弱者」「自信過剰」「集団的無知・愚行」「強欲・焦り」「酩酊」「視界不良・情報不良」「環境条件不良」の全てに当てはまるような人間がC-POPゴロゴロいるのである。

犯人の趣味趣向ゆえ、日本で「オタク」が毛嫌いされるきっかけとなった、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤は曽祖父が村会議員、祖父が町会議員、親は新聞関係の裕福な家系。大阪池田小事件の宅間守は元自衛官であり、父親は元社会党関係、先祖は旧薩摩藩の下級武士で親族には警察・法律関係者が多かったという。京アニ事件の親は議員の運転手。関西学院出・元キーエンスであおり運転をした男は殺人は犯していないが、非常に危険な行為をして世間を騒がせたが、彼の祖父は税理士だった。佐世保女子高生殺害事件の犯人の父親は早稲田大学政治経済学部を卒業、県内最大手の法律事務所を経営していた佐世保では有名な弁護士(事件後、自殺)、母親は東京大学を卒業、市の教育委員を務めていた。相模原障害者施設事件の植松は、父親が教師で、本人も途中まで教師コースを歩んでおり教育実習も経験している。自殺志願者を集めて殺害した自殺サイト殺人事件の前上博は父親が警察官(白バイ)、土浦連続殺傷事件の金川真大の父親は外務省ノンキャリア。秋葉原通り魔の加藤智大の父親は地元青森の信用金庫(銀行業は行政とズブズブ)の要職、酒鬼薔薇の父親は日本型体制とズブズブの歴史を持つ川崎重工勤務。大阪個室ビデオ店放火事件の小川和弘の母親は公務員

特に、戦後日本における死刑囚としては京アニ事件、オウム真理教事件の死刑囚や連合赤軍事件の坂口弘に次ぎ、単独犯では最悪の数字(殺害人数16人は)を誇る大阪個室ビデオ店放火事件の小川は、

生きていくのが嫌になった

が犯行の動機で、公務員だった母親の退職金を頼りに大阪府門真市に3階建て住宅を購入したが、妻との離婚で競馬やパチンコにのめり込み荒れ、母親の死亡に伴い、遺産や実家の売却などで現金計約5000万円を得たにもかかわらず、わずか2年間でギャンブルなどに使い果たし、自身の退職金1000万円(元松下産業≒パナソニックのライン工で、早期希望退職)も1年で溶かし、キャバクラ豪遊、「俺の女に俺が店をさせている」などと吹聴して回っていたという絵に描いた堕落ぶりである。

 

いかがだろうか。

中身が無いのに身分不相応の喜びを知り、これを失って他責的に逆恨みで事件を起こす輩が多い。犯罪にもある程度、共通のパターン、principleがある。地方公務員などのように「大卒世界では負け組、高卒世界では勝ち組」「地方では勝ち組、都会では全然」というタイプや準公務員的な大企業組織などの雇われは勘違いをしやすい。

  • 人生うまくいかない
  • 他責
  • 女も金もない
  • 絶望
  • 自分の値打ちが客観的に見えない、自己過大評価

みたいなタイプは暴走しやすく、その最たる例が「C-POP」なのである。

福祉・医療関係者、卸売・小売、製造業の三業種で、全体の雇用の50%を占めているというのに、それにしても凶悪犯罪者分布の異様な偏りである。9士業の合計は26万6000人、公務関係は67万人しかいないのに(準公務員とも言える、金融・水道熱供給系のインフラを足してもプラス90万ちょい)、本人、一親等、二親等の範囲で、国内の職業分類のうちの多めに見積もっても10%以下の職業群に何らかの関係があるケースが頻出している。

私の犯罪者ガン説が荒唐無稽な話では無い事がお分かり頂けるだろう。

社会を騒がせる犯罪は、ある意味、社会への反抗行為である。だから、士業、教師、自衛艦、公務員、政治家などの血筋の人間が多いのは当たり前と言えるかもしれない。低学歴層・実家貧乏層は、経済犯罪であったり、暴力事件であったり、もっとチンピラのような事件を起こす。もしかすると、小さい頃から「荒れ慣れ」していて、加減を知っているのかもしれない。凶悪犯罪者は、「公権力関係」「官公庁と近い関係」「税金をもらう側」の血筋であったり、本人が元そういう経歴を持っていて、職業的挫折・社会的挫折と、定職に就かない・プータロー・フリーターの時期を経て鬱憤を爆発させていることが多い。また、独身が多い。私が「貧乏になる」と警告・注意しているクリスチャン関係も多い。要するに、「社会不適合」「社会的挫折」「社会的無能」「社会的不服」というものがキーワードになっていることが読み取れる。

高学歴ニートが出演するテレビ番組などを観ればわかるが、titleバカは本当は賢くないのに無駄に勉強してしまったものだから、狭い了見でいちいち反抗してしまう。早慶程度のレベルの大学に入っただけで社会的に何もなしてないのに、論理的に反抗してしまう。社会的に評価されるレールを途中まで歩んで、途中で叩き落とされたものだから、社会に対する不満が強い。創造性が足らず、破壊的で、このベクトルが自分に向いて荒廃・自堕落になっているのがニート、外に向いているのが凶悪犯罪と言える。

 

私はここに、ガンやウイルスと類似性を見るのである。

私の公務員嫌い、公務員不信は小学生の頃から一貫している。公立校であったが、精神障害の教師、女子トイレ覗きでクビが飛んだ教師を始め、人格破綻者や低知能な人間、暴力人間が物凄くたくさんいた。中学も高校になっても同じで、大学時期に同世代の「頭のおかしい人間」と思う人間から公務員系に進もうとしているのを見て確信した。社会人になっても、公務員系を見るたびに私のバイアスは補強されることが多い。国家資格系に関しても同様で、一昔前のネットの「司法試験受験生掲示板」には犯罪者予備軍にしか見えない、社会不適合そうな人たちがわんさかいた。自己啓発セミナーに行くと、税理士の科目合格を目指してコツコツやってるというが事実上のプー太郎・フリーターみたいなやばそうな人たちがたくさんいた。

ペーパーテストに受かって、何らかの資格や許認可業務につく、お堅い仕事に就くというコースで出世した親が、子供に何かを残そうというとき、成功した経営者・起業家では無いから事業やポスト、財産を与えることはできず、その代わりに熱心な教育環境と指導を与えることが多い。もし、子供がこれにフィットしない落ちこぼれだった場合、親は子供に失望し、将来を悲観し、親本人も、私が「R&B(Real nature & Bait a incentive)」と呼ぶ市中のビジネスの世界で生きていけない無能であるからインストラクションできず、ただヒステリックになって子供にプレッシャーをかけるだけである。

 

逆に、母親の厳しい躾けや過干渉が子どもを追い詰め、凶悪な事件に繋がるケースが意外と多いことにも気づかされます。秋葉原通り魔事件の加藤智大は、母親からスパルタ教育を受けました。

テレビ番組は「マンガ日本昔話」など2本だけ。友達との往来は禁止。作文指導では母親が横に座って検閲し、質問は母親がカウントダウンし、10秒以内に応えないとビンタが飛んだそうです。

一般論として再認識したいのですが、育児の基本は第一に、自分のやり方で愛することではなく子供の「安全基地」であるように、子供への愛情の注ぎ方を考えたいものです。

ーミセスパンプキン

 

親子揃ってテストで点を取るしかできない。親の愛情表現が下手、不器用であると、物理的・精神的に圧迫されたままヒューマニティが欠落して育つことになる。良い成績を取らなければ自分は存在価値が無いのではないか、と思ってしまう。また、家系そのものが頭が堅い人間ばかりであるから、ジョークもユーモアもなく、自由放任さが足りない。そして子供は「平均的な暮らしより上の贅沢」を覚えて育ち、泥臭さに欠け、欠け、「血筋には誇りがあるが、でも家庭では落ちこぼれ」という非常に不安定な精神状況になる。

このまま、社会に適合できずに育つと、

俺は正しい、社会が間違っている

という考えになりがちである。これの表現・発露が文化創造的だとか、社会的なら良いが、刑法犯的・破壊的であると、「世の中の全てへの反抗」であるから、ペナルティシステムが念頭においている「●●刑は抑止力があるだろう」みたいなものが効果を持たない。おそらく革命感覚である。

 

平均的な家庭以下なら、ヤンキーになるなり(周りにヤンキーがいたり)、学校をほったらかしてバイトに明け暮れるなり、尾崎豊的なことをして心の傷を癒せる。一時的に心理的に休める、逃げられる。ところが、中途半端に良い家庭で育つと、「時給1000円以下で働くなんてありえない」と考えたり、あるいは親がそういう教育をしていたりするために厄介なのである。社会の「し」の字も知らないうちに、「どうして俺の1時間を1200円で売らないといけないんだ」などと考えてしまう。実際はその1200円の仕事の現場ですら何もできないレベルなのに、である。

社会には低時給で働く使われる人間と、高い時給で働く使う人間がいるから、前者にならないように受験勉強を頑張りなさい

などと言われて育ったもんだから、そのコースで漏れて悔しい思いをしている中、自らレールを外れるなんて追認的な自己嫌悪加速行動はできない。ヤンキー界隈や薄給バイトの世界など行きたくない、などと意味不明なプライドを発揮したりする。

私は、人事採用権に影響力を持つ「会社の中の人」だったこともあるし、会社の外に出て人を集めることに主体的に関与してきたこともあるけれど、その類の人間を例外なく切ってきた。一切の関わりを持たない、適当にあしらう、関わりが浅い段階で切るようにしてきた。

 

「お父さんが有名企業リーマンで・・・」

「お父さんが経営者で・・・」

「旦那がすごい人で・・・」

「〇〇大学卒で・・・まぁ今ニートなんすけど・・・・」

 

というような、「(1)当人の能力・経済的利用価値は無いのに」「(2)事実上無意味・無価値な指標やバックグラウンドに自尊心が支えられており」「(3)自分の立ち位置が見えていない(自己過大評価)」で「(4)伸び代・素直さ・学習意欲・社会性・コミュニケーションといったいわゆる『適合能力』に欠ける」「(5)健康的なハングリー精神のない人間」という人間を受け入れた場合の行く先、そのリスクは凄まじいものがあるのである。おそらく世間の人事担当者の感覚も似たようなものだと思う。

なぜなら、この手のタイプは、「丁寧に育て大化けするか、逆恨みされるか」のどちらかであるからだ。

もし、こういう人間をどうにかしてあげたいと思っても、組織の資源や目的、現状の体制上不可能で、それをやると自分が危機に陥ったり、他のまともな社員が迷惑を被る場合もある。100%自分の手元で物事を動かせる場合も、取引先がいたり、手元の事情があったりして、中途半端に終わってどっちも損になる場合もある。

そして、だからこそ、「不採用」のループが続いたり、「良いチャンス」が得られなくなったりしてこのタイプは窮地に追いやられてしまう。そしてますます再起不能になる。ニートにもこのタイプはすごく多い。逆に言えば、今の話を逆に考えれば必ず生きる場所は見つかる。実際、私は人生で面接に落ちたことがほぼ無い。受け手側の事情がわかるからである。事情がわかるからである。

また、ニートに多いが、いかんせん、無駄に高学歴だと、「金よりも学問が尊い」などと考えて「どうして金のために社会に出ないといけない」などと考えてしまったり、上司の言ってることが学術的に間違っていると気付いてしまったりして、水を差してしまう。大学では、学徒全員に発言権が与えられて、批判をしあって真理に近づくという世界であるが、実社会はほぼ上意下達・上命下服で成り立っており、お作法が違うため、下手なことを言うとピンチになる場合もある。サラリーマン界隈からすると、大学教授も社会不適合者の部類である。検察官の上意下達的横暴や、官僚の政治家擁護・隠蔽体質などは残念ながら、「社会人として社会にへばりつく」という一個人の個人最適として正しい場合もあるから悩ましいのである。

組織人として働いた経験がある人はわかると思うが、逆に、上司や同僚に「自分のミス」「自分の粗」などを目をつぶってもらったり、救ってもらうことも多い。その際、もしそれが、外的(社会的)には間違っている方向であっても、恩を感じるものである。いまいち手触りのない社会や、日々移ろって行く客のことより、長い付き合いである組織内の人間関係、恩や義理を優先して社会的に間違った方向に走る、という「組織の愚」はどうしても避けがたい場合もある。古今東西、

「出世する人間は清濁併せ呑める人間である」

「社会に出て葛藤することになる、正しさと組織の理の対立を乗り越えた時に組織人として大成する」

と言われる理由だ。

公務員組織が危ないのは、民間ならそういった「組織の愚」の果てに成績が悪くなれば修正作用が働くが、公務員組織にはそれが一切無い事である。

(1)社会的正しさ、(2)組織的正しさ、(3)個人的満足の3つを同時満たすのは難しい。(2)だけに徹底する人間は、一見すると柔軟性が高そうだが、(1)が狂っている沈みゆく船に乗ってしまう場合もあるし、(3)の問題からうつ病になることもある。

 

 

 

ティーンエイジの頃、腕の骨を折ったとき、医師に

誰かを殴ってないよね?

とまず真っ先に尋ねられたのを覚えている(もちろん杞憂である)。何か事件性があれば、ここから当局に通告がいくシステムであろう。病院には事件性のあるヒントが転がり込んでくる。指名手配犯が、美容整形外科医の通告から捕まるケースは結構ある。帰り道、院内で警察官が仰々しく闊歩している景色が印象的だった。

ディーン・フジオカ主演で映画化もされた、2007年のリンゼイアンホーカーさん殺害事件。犯人である市橋達也は医者の息子で、イギリス人英会話講師を千葉県市川にてレイプ殺人した。逮捕された際、一橋の端正なルックスゆえに「市橋ガールズ」「市橋ギャル」なる女子たちも現れ話題になった。

市橋は犯行後に長期間逃げ回っていて全国指名手配されていたが、逃亡のために美容整形手術を受けていたことが手術した医者からの通報で発覚している。

逃亡中に自分の顔を麻酔なしで外科的に変えようとする、父親が医者である、医学部に4浪の末に合格せず私立大学に進学・卒業後、父所有の3DKマンションで暮らしながら月12万円の仕送りを受け、就職もせず海外留学を夢見て英語の勉強をする流れで被害者と接点を持つ、逃亡中に美容整形医に通報される、ヒステリックな歯科医の母親に家業を継ぐようプレッシャーをかけられる(医師になるように)、など何かと「医師・医療」と関係のある話題性のある事件だった。「上流家庭」が子供にどんな環境を与えているのかを白日のもとに曝け出したのである。

医者というのは、4浪して医学部に受からなかった息子に私立大学に通わせ、その後、自ら所有のマンションに家賃無料で住まわせながら20代後半になった息子に月12万円の仕送りができる財力があるのである。ただ、この家庭は父親は医師で母親は歯科医という比較的ハイクラスの職業で、ダブルインカムのパワーがある家庭であった。

彼の家庭に関しては、医師の父よりも母の方に教育上、問題があったとされる。

 

繰り返しになるが、日本の犯罪史を追うと、死刑になった凶悪犯罪者は、

  • 親が裕福、実家が裕福
  • 親が公務員、税理士、など固い職業だったりする
  • 親が教員であることが多い
  • 母親の教育がおかしい、愛情が足りていない、非常識、教育ママ
  • 親が離婚している

というような人間が犯罪を起こしていることが多い。特に母親がダメな家庭はすごく多い。

 

凶悪犯罪者の家庭は親が士業、医師、公務員などの許認可・資格業態であることが多い。「CーPOP」だ。本当はこれらの職業は「非資本主義的」で無能なのだが、特権ゆえにそれなりの暮らしができてしまう。医師・弁護士は勉強はできたであろうが、それが必ずしも頭の良さとイコールになるとは限らない。これは、「息子・娘」がどうなるかを見れば如実にわかる。親が子供に何を残すか・残せるかは親の能力を端的に自己紹介する。だいたいこの手のエリートは子供に「良い大学に行け」しか言えない。彼らにあるのは、Contentsではなく、Titleである。

この手の家庭で育ったが、頭の出来が悪く受験戦争・ペーパーテストで良い成績を収められないタイプは、「下手なプライド」「身の丈に合わない経済感覚」を持ったまま、一家の恥として劣等感を刷り込まれたまま社会に送り込まれる。そして当人に実力も、ハングリーもない。ハングリーも無いがプライドと金銭感覚だけ高止まりした、「生い立ちに対する誇りと劣等感の間で揺れる」アンビバレンツ(ambivalent)な心情の人間は反社会的になるか(引きこもり、ニート等)犯罪を犯すしかない。貧乏から腕一本で這い上がってきた叩き上げに勝てない。DQNにも勝てない。居場所が無い。だから、凶悪犯罪者の親は、医師、公務員、官僚、教職、士業などが多いのである。

この手の犯罪者は、いわば、ジャニーズにも入れない、ストリートシンガーとしても這い上がれない芸能人志望者が、テキーラ一気飲み、樹海探索などの芸に走るかのごとく、社会を賑やかす事件を起こして自分の力を誇示する。

 

良家の娘が集う女子アナ界きっての実家金持ちで知られるミタパンは、「知性と思いやりが溢れた、自分の言葉」でコメントできると評判であるが、商売人の家系の娘である。銀行や士業に代表される資格業や許認可業のような「エセ商売」とは違い、本物のストリートファイト商売で勝ち上がってきた人間の世界は、言葉(copy writing)が違う。言葉はその人間の思考を端的に表す。

そもそもお受験競争で這い上がってきた人間なんて、「本当に何も!」考えてきてないのである。

ー西園寺貴文

 

市橋事件の当時、今のようにSNSというものが無かったため、テレビで頻繁に「情報募集」「未解決事件を追う」みたいな番組が放映され逃走中だった市橋容疑者はよく取り上げられていたが、最近はあの手の番組を全く見かけない。今の世の中だったら、この手の事件は簡単に解決するだろう。

インターネット・SNSが世の中の何を変えたか?

と考えるとき、女性が被害者になるこの手の事件が加速度的に減った気がする。インスタやLINE、スマートフォンは、人々の行動履歴や目撃情報などの多くを可視化するようになった。人の人生のあらゆる側面はコンテンツとなり、どこかに保存されるような時代になってきている。

「バカッター」「バカ発見器」として、問題行動を起こす若者がSNS上で即拡散されて炎上するような世の中になったが、SNSができる前からあんなのはいつの時代もいた。可視化されるようになっただけである。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。