そもそも警察はまず正義ではなくて、現支配体制の治安維持部隊(要するにパシリ)であり、香港の警察なんかを見てもわかるように支配者の意図があれば暴走する機構でもある。そして、支配体制には必ず不満が出る。万人から肯定される政治はない。
本当に反社会的な人たちは、往々にして、生まれも悪く、生い立ちも壮絶で、社会に出ても仕事や異性から拒絶され、人生を悲観した先にそういった行動に出ていることが多い。彼らにとってこの世界に肯定する要素が無いのだから(生きる喜びが一切ない)、大衆や国家権力にいくら非難されてもビクともせず、世界への否定行為として犯罪に走る。ある程度、この世界に肯定的な意識がある人間が考える罰では抑止にならないのだ。チベットの焼身抗議や、中東の自爆テロを見てもわかるように、何らかの社会的メッセージを残すために自らの命を顧みない人間はどこでも必ず出てくる。極刑が抑止力になる、というのは「失うものがある」裕福な発想である。
怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう気をつけなければならない。
深淵を覗き込むとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。
ーフリードリヒ・ニーチェ
夢中になった羊は、もう決して羊ではない。
臆病者は服従に於(お)いて模倣するが如(ごと)く、反逆に於いても模倣する。ー『叛逆者の心理』/大杉栄
(明治~大正の社会運動家・無政府主義者)
犯罪行為は、ある種の破壊衝動であることも多く、世間を騒がせた殺人事件を仔細に見ていくと社会問題の写し鏡のようにも見える。そして、何らかの社会否定性を持った犯人が行動しているケースが多いからこそ、ペナルティが抑止として機能していないと思われる。そもそも、家庭環境や教育環境に歪みがあったり、異性交遊・職業面での挫折が多すぎるなど、通常の感覚を備えないまま育った人間が実行犯のケースも多々ある。私が言っていることはyoutubeなどで「弁が立つニートの言い分」などに耳を貸せばすぐにわかると思う。社会からの仕打ちで社会への恨みをを持つ者は、これまた同じ社会から救済されないと反社会性を拗らせたままになってしまう。
クラスの輪の中心にいた人間と、片隅にいた人間が同じ感覚で育ってきているわけがない。社会人として活躍している人物と、社会から漏れている人物が同じ感覚で生きているわけはないのだ。
大阪池田小事件のように、父親が母親を殴って家中血だらけという環境で育ち、学歴コンプレックスを拗らせ医者だと偽って結婚するような男が白昼堂々、小学校で無差別殺人し、「自分みたいに、精神病院の屋上から飛び降りて怪我したような展望のないおっさんに殺されるような不条理を世の中にわからせたい。なんぼ勉強できる子供でも、5秒か6秒で殺される、そういう衝撃を与えたかった」と動機を説明し、法廷でも遺族に暴言を放つ・自ら死刑を望むという異常性を見せ社会からは「マジキチ」と認定され終わったが、接見した臨床心理学者には「世の中は理不尽、金と学歴がものを言う」「パイロットだったらそれなりにうまくやっていた」「●●の仕事をやっていたら僕でもそれなりにうまくやっていけてたんとちゃいますか?」と本心を吐露し、小学校時代からいじめられ続け社会に出ても疎外されていたという博愛主義者の女性と獄中結婚し最後に妻に礼を言って刑執行、遺体を引き取った妻が一晩中号泣したというケース(2001)、
一橋卒のエリートで大の航空ファンだが航空会社の就活に落ちて、その後空港に警備体制の欠点を指摘する書面を送って再度認めてもらおうとするも思うようにいかず、「自分の力を思い知らせたかった」という動機でハイジャック・機長殺害をし、操縦桿を握って暴走、乗客だった航空関係者が取り返さなければ墜落して戦後最悪の航空事件になりかねなかった、就職氷河期世代の犯人による全日空61便ハイジャック事件(1999)、
父親は地元青森の信用金庫の要職、母親は虐待的教育ママという家庭環境で育ち「兄は母のコピーなら僕はコピー2号、でも僕は違う」と言って事件後に容疑者の弟が自殺した、ある種の家庭の悲劇、生い立ちに対する破壊衝動にも見える秋葉原通り魔事件(2008)、
「障害者は生きる価値がないと思った」という元障害者施設の職員が起こした相模原障害者施設事件に(2016)、
典型的8050問題の家庭だったという犯人が犯行後すぐ自殺した川崎登戸通り魔事件(2019)、
不倫の果てに産まれ、離婚後片親に育てられた氷河期世代の元埼玉県非常勤職員、コンビニ強盗の前科で収容された刑務所でも暴れまわるが小説を書くときだけは大人しかったという男が放火で36人殺害(大量殺人として戦後ワースト3位)、「京アニに作品を盗まれた」と動機を供述し、自らも重傷を負い「(医療スタッフのケアを受けて)こんなに優しくしてもらったのははじめて」と医療スタッフに感謝しているという京アニ事件(2019)、
「京アニ」、「相模原障害者施設」に次ぐ16人殺傷の大事件で、会社をリストラされて「生きていくのが嫌になった」という犯人が大阪難波の個室ビデオ店に放火した、大阪個室ビデオ店放火事件(2008)、
など・・・・。
全く死刑が歯止めになっている様子が伺えない。社会経済構造、生い立ち、家庭環境、そういったものへの壮大なアンチテーゼであるケースが非常に多い。社会も、自らの生も、将来も、日々の生活も、血筋も、全て肯定できずにいる人間には効かない。失うものが無い。いわゆる「無敵の人」である。失うものがないから、失わせようとするペナルティの発想が全く効いていない。
この手の「社会のガン」とも呼べる凶悪犯罪者を死刑で抹消していくのは、私は対症療法的アプローチなのでは無いかと思ってしまう。
「わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!!でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」
ー宅間守死刑囚 2004年死刑執行
「人を殺すのは蚊を殺すのと同じ」
「ライオンがシマウマを襲う時に何か考えますか?」
「(犯行の動機は)死刑になるため」
「死刑はこの世の極刑ではなく、唯一のご褒美で、救いとも言うべきものだった」ー金川真大死刑囚 2013年死刑執行
なぜ人を殺してはいけないのか。
この問いに、貴方はどう答えるだろうか。私は、小学生の前では言えないけれど、「道義的・倫理的に人を殺してはいけない」という理由は当然という前提の上に、ある程度の段階からもうワンランク上の視点で「殺してはいけない理由」を自分の中に確認する必要があると思う。私はとある成人した女性が、「国内で人を殺したら殺人者・犯罪者なのに、戦争で敵国の人間を殺したらヒーロー、世の中おかしい」と言っているのを聞いて、「こういう人がオウム真理教に入って人殺しになるんだろうな」と思った。あの宗教では人を殺すことがポア(救済)として正当化されていた。世間一般で流通する殺してはいけない論理の破綻に気付き、元々持っていた社会への不満から不信に発展、アンチテーゼとなる論理体系を示され、その中で殺人を正当化されれば簡単に人殺しに化ける。論理で歯止めをかけていた人間の、その論理が崩壊し、別の論理を叩き込まれたからだ。
世の中には、「言い逃れのできない失敗」「取り返しのつかない失敗」がある。人を殺すことはこれにあたる。理由は、殺した命が戻ってこないこと、死刑・無期懲役になる可能性があり社会的に抹殺されること、仮に出所したとしても人殺しのレッテルが貼られて一生続くことが挙げられる。実は一番最後の点が重要で、「カッとなって刺した」と供述するタイプに代表されるように、犯罪者には想像力に欠けるタイプが多いが、仮に刺した人間が一命を取り留めようが、刑事司法が軽い刑罰を与えようが、「実社会」からの評価は厳しく付いて回る。私たちは、評価によって生かされ、殺される。経済社会のあらゆる活動は、評価のために命を削り、金をかけ、リスクを背負っているとも言える。罪を犯す人間は、評価、信用、信頼という概念が薄い。理由はおそらくその恩恵を受けた経験が無いからだと思う。
-
- 信頼を作る
- 信頼を維持する
という努力をしている人間からすると、殺人なんてもってのほかなのである。
これは、信頼関係の賜物である。人間同士の関係において、信頼があれば、お金が稼げたり、エッチなことができたり、重要な仕事を任せてもらえたり、出世したり、良い情報を聴いたり、誰かに頼りにされたり、・・・・と良いことがある。マズロー欲求5段階説の下から上まで全て満たせてしまう。多くの犯罪者は、全くこれがわからないのだと思う。
2019年、Third door(サード・ドア)というビジネス書が話題になった。ビルゲイツ、スティーブン・スピルバーグ、ジェシカアルバ、レディーガガなど、アメリカ各界の成功者に18歳の大学生が成功の秘訣をインタビューして回る内容のもので、簡潔に要約するとこの世界は人間が創っている以上、信託を受ける・信頼関係を築くことでチャンスが開けるというものであった。犯罪者・社会的失敗者はまさにこれの逆をいっていると言わざるを得ない。
犯罪を犯す人間は、他人の生命、財産、自由を軽んじているという以前に、「信用・信頼」がもたらすパワーに気付いていないように思う。セックスもお金も、究極、目の前の他人が「YES」と言えば手に入る。YESと言い続けてくれるような安定した供給先を見つけると、「信用を失いたく無い」だとか「ありがたい」だとか感じるようになるものである。
そもそも、何より社会が「犯罪するよりも王道の方が得するような設計・人材登用」でデザインされている。知能指数が低いと、学習・教育歴が浅いと、攻略方法がわからない・見えてこないだろう。既に触れたように、6歳から始まる義務教育は一生ついて回る最終学歴に結実し、30歳~35歳までに人生が決まるとしてもその半数の時期は親元で過ごすのが一般的である。ここには大きな問題がある。多くの人間が、ほぼ例外なく「生きることは辛く苦しい」と思ったことがあるが、それでも大抵の大人は何とか適合できている。しかし、適合できない人間が一定数、今もどこかで生まれ続けている現実がある。彼ら・彼女らが感じている・思っていることは、普通の人には理解し難いだろう。
生物が食事をし栄養を取り込んで排泄物を出すように、車が石油精製物であるガソリンを燃やして排気ガスを出すように、機能的なシステムは一定程度、「ゴミ」を出す。これが、組織・細胞の変異となって全体系を蝕んでいくようになると恐ろしいことになる。同様に、現行の社会制度と家庭制度は、一定数、ガン(cancer)を生み出してしまう。犯罪者が生み出されるメカニズムは、この社会・生態系における、ガン細胞に見えてならない。彼らに、C-POPが前提とする「ペナルティ」「オーダー(秩序)」「愛国心や社会的協調性と忍耐」は通用しない。システムの問題ではなく、あくまで個人に帰責しようと必死な社会は、そもそも個々人の喜怒哀楽を信頼して現行の刑法体系が構築されていることを忘れている。喜怒哀楽が狂った人間の前に死刑は意味をなさない。元少年Aは、刑事に「僕はいつ死刑になるのですか?」と尋ね「お前はガキだから死刑にはならない」と返答され、愕然としたと述懐している。死刑は自分にとって唯一の救いだったのだという。自己顕示欲・自己尊大欲求が強すぎて自死はできないが、殺人を通して自らの力を確認するとともに、心のどこかで「(自分ではできないから)誰かに自分を消して欲しい」「誰か自分を止めてくれ」と願う異常心理である。麻薬中毒者も同様でもう自力で歯止めが効かない。
結局、最後の最後で歯止めになるのは刑罰に対する損得勘定や恐怖感情であるが、ただでさえ価値観に個人差があるのに、追い詰められた人間となると「損」や「恐怖」は普通とは全く違う。
競争、不信、自負—この3つの条件が満たされるとき、人びとは侵略を行う十分な動機をもつ。以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。すなわち「戦争」とは、闘いつまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。
ーホッブズ
外の殻が非常に閉ざされている一方、内面は非常に情緒不安定という二重構造で、私の診断では初めてのケース。理性、感情、本能のそれぞれの交流がない状態。精神状態が非常に未熟で、問題を解決する能力は小学三年生レベル。
ー大阪池田小事件の宅間守を精神鑑定した医師の法廷での証言
彼(加藤智大死刑囚)の両親は、共に高卒の学歴を背負って競争社会で苦労しており、学歴が人生を変えるという神話の虜になっていたと思われます。特に母親は、彼と同じ青森高校の出身です。進学校を卒業しながらも大学に行かなかった(行けなかった)悔しさは、わが子の人生上でそれを成就させようとする無自覚の動機を生みます。こうして「支配」で結ばれた親子関係が形成されます。「悲しいよい子」を解き明かすキーワードは、虐待の顔を持たない支配、つまり「きれいな虐待」なのです。
ー長谷川博一(臨床心理士)
「絶歌」や「『少年A』この子を生んで・・・・・・」を読んで痛感するのは、子供に「安心感を与えられているか」「愛情を愛情と認識されているか」「子供の異変に気付けるか」ということを自問することの重要性です。一見すると平凡な家庭で発生していることを思えば、どのような家庭の親であっても、子どもの教育について自問しなければならないのです。
ーミセスパンプキン https://toyokeizai.net/articles/-/74947?page=4
事実、死刑制度は抑止力になっていないというデータがあり、世界的に見れば死刑廃止国の方が多い。
死刑執行方法 | |
致死薬注射・電気椅子 | アメリカ合衆国 |
致死薬注射・銃殺 | 中国 |
斬首 | サウジアラビア |
銃殺 | ベラルーシ、北朝鮮、ソマリア、イエメン、台湾 |
致死薬注射 | タイ、ベトナム |
絞首 | アフガニスタン、ボツアナ、エジプト、イラン、イラク、南スーダン、スーダン、パキスタン、シンガポール、日本 |
そもそもまず、死刑とは何かを考えなければならない。
大阪弁護士会のDVD「絞首刑を考える」によると、死刑は、苦痛を与えて権力への服従意識を植え付けるために行われてきたという。過去の日本(平安時代末期)では、手足をのこぎりで落とす、牛に手足を引かせて引きちぎる、串刺しにする、釜茹でにする、などの残虐な刑が行われていたが、ただ殺すのではなく残虐性を突き詰めたのは服従を求めた権力の思惑によるものということになる。執行の対象者云々というより、それ以外に対する見せしめ的な意味合いも大きいのは今日も変わらないのかもしれない。
海外も似たような状況ではあったが、人類は残虐な刑罰から、なるべく苦しみが無い刑罰へと移行してきた。「死刑廃止へ」「残虐性の排除へ」というトレンドに相対的に逆行しているのは、実は先進国では日本ぐらいだ。
「石川や浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種は尽きまじ」
の辞世の区で知られる大泥棒・石川五右衛門は、京の三条三河にて自らの子供と共に釜茹での刑に処せられ命を絶った。当時は秀吉の世であったが、秀吉嫌い・権力嫌いの京都人の中で、今も昔も人気が高い故に伝説が残っている。現代でも彼をモチーフにした作品は多い。ただの泥棒がこれだけの残虐刑に処せられたのは反体制行為をした可能性があるが、貧しい人ではなく、富める者や権力者から盗みを働いて庶民に還元していたため庶民のヒーローだったという説もある。石川五右衛門が一家根絶やしにされたのは、それだけ危険だった(庶民人気が高かった)のかもしれない。
死刑は国民のためというより、国家権力のために行われている。
ー西園寺貴文
凶悪犯罪を起こす人間の心理の根底には、「世界への否定」がある。
「大人と同じように刑罰を下したところでいじめ・恐喝・リンチ殺人などなくならないどころか『これまで以上に陰湿なやり方』が増えるだけだ。仮に少年法を改正しても凶悪少年犯罪が減少することはない」
「凶悪な少年犯罪を生む素地は『大多数の負け組の上に、一握りの勝ち組が君臨する社会構造』にある。現代は『金か能力のある者』だけが『正義』と持て囃されて勝ち誇る社会だ。子供でも一部の裕福で恵まれた人間以外は夢も希望も見ることもできない。」
ー関光彦死刑囚 2017年死刑執行
(押し入った家の15歳少女以外を全員殺し、15歳少女を数回レイプ、金品を強奪した市川一家4人殺人事件。古今東西の普遍悪である「強姦・強盗・殺人(複数・一家殺害)」を同時に行い半世紀ぶりに未成年が極刑となった事件。平成の少年犯罪では初の死刑確定・執行事件。)
個人的怨恨(関係性に基づく)ではなく、見知らぬ人に無差別に攻撃を加える類の犯罪で、かつ性欲に駆られて女性を襲ったというケースでも無い場合には、犯人が反社会性の塊であることが多い。これは「家庭」と「社会」に向けられたものであり、この手の事件で世間を騒がせた犯人は、生育環境により「反社会的」な性質を根っこに抱えてこの色眼鏡で世界を見る。多くの「普通の人間」が抱えている「社会的に堕落したらどうしよう」という不安が無い、あるいはもうすでに堕落しているパターンが多い。そうすると、自ずと支配階級が世の中を作っている構図や、生まれながらの不平等などにも気付いてしまう。犯罪行為は、まさに鬱憤の発露であるため、社会的制裁の数々が全く効いていない。
「失うものがない」「社会否定的」「絶望した、自滅願望」「身勝手」が揃えば、何らかの事件を起こしてもおかしくない。
「交友関係の希求と外見上のコンプレックス。俺が余る理由は不細工だから。彼女さえいればこんなに惨めに生きなくていいのに。顔だよ顔。全て顔。とにかく顔。顔、顔、顔、顔、顔。彼女がいることが全てなのか?それで全てですが何か。友達欲しい。でもできない。なんでかな。不細工だから。終了。友達募集する時は、他に友達いない人を募集しなきゃだめか。でもどうせすぐに別の友達ができて、俺を裏切るんだ。わかってる。死ぬまで一人。死んでも一人。彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、世逃げすることも、携帯依存になることもなかった。希望あるやつにはわかるまい。孤立感と嫉妬。どうして俺だけ一人なんだろ。望まずに産まれて、望まれて死んで、待ってる人なんか居ない。俺が死ぬのを待ってる人はたくさんいるけれど。みんな俺を敵視してる。味方は一人もいない。この先も現れない。不細工な俺は存在自体が迷惑なんだっけ。ただいま、と、誰もいない部屋に向かって言ってみる。どーせおれなんて、中年になっても6畳1間のぼろアパートで一人暮らしでしょう。勝ち組はみんな死んでしまえ。トラックのタイヤが外れてカップルに直撃すればいいのに。やっぱり、他人の幸せを受け入れることはできません。知ってる奴なら尚更。やりたいこと・・・・殺人、夢・・・・ワイドショー独占。親への不満。親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧、親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ。好きな服を着たかったのに、親の許可がないと着れなかった」
ー加藤智大死刑囚 (秋葉原通り魔)
この手の凶悪事件で、愛する子供を死刑囚に奪われたような家族は「子供を返して」「時を巻き戻したい」というのが1番の心境だろう。1番はそれなのである。この遺族の悲しみと怒りの感情に国家権力がつけ込んで「代理復讐」するかのような「フリ」をし、実際のところ外患誘致などの「体制破壊の罪を画策する人間を死刑にする口実」が欲しいだけであろうと私は思う。
実際、殺人は無期懲役になる余地があるが、外患誘致は死刑以外の規定が無い。日本国の刑法は、殺人よりも国家転覆を画策した人間を罪が重いと位置付けている。刑法には国の本音が現れる。
道義的に、「人を殺めてはいけない」、という普遍的なprincipleを破った人間に対して、国家権力は国家権力の都合(刑法体系)によって処罰を与え私刑を禁じるが、この刑法体系は外患誘致に対する罪を頂点とするシステムとなっており、明らかに、被害者救済というよりは社会秩序・体制維持のためにある。実際、多くの凶悪事件において加害者よりも被害者の方が国に苦労させられているケースが多いだろう。
私は被害者の感情を逆撫でしたいわけでも、加害者の擁護をしたいわけでも無い。だが、国家権力や社会体制、秩序に対して不満を持って行動を起こした凶悪犯の被害者は、国家権力や社会にも泣かされることが多いという点で、加害者側の「俺の世界に対する不満を世の中にわからせたい」という幼稚な思惑に巻き込まれてしまうのである。そして、加害者側の思惑を充足させてしまう。
神戸新聞社へ
この前ボクが出ている時にたまたま、テレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも、謎かけでも当て字でもない。嘘偽りないボクの本名である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性さがとしか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。
最後に一言
この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。
———— ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている ————
ー酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)の犯行声明
たいていの人間は、極刑に処せられたキチガイの言い分など耳を貸すに値しない、と思うだろう。しかし、過去日本で死刑に処せられた人間たちの中には、自分の弁護や当該案件を超えて、「社会システム」や「犯罪が起こる原理」について触れたものがあり、残念なことに彼らの予言は当たっている。社会から除去させられた死刑囚達の多くが、「同様な事件は無くならないだろう」「真実を明らかにし真因について人々が知らない限りどこかで同様な事件が起こるだろう」と薄気味の悪い警告・予言をしている。凶悪犯罪者各々が語る自己弁護的な動機説明としての社会批判は身勝手極まりないものだが、各々の発言を他の犯罪者であったり、時間軸を挟んで別の事件例に当てはまると彼らの予言・洞察は的中しているのである。また、オウム真理教のように擬似社会を形成して、途中まではテレビ出演してとんねるずやビートたけしと絡んで一定の評価を受けていたような狡猾なタイプだと、余計に犯罪者側の弁やそれを支える社会思想に一定の合理性がある。この現実を最初から直視しないままでいるから、「なぜあの子が・・・」と後から驚かれるようなタイプが道をそれる。
いつ誰が被害者になるかわからないが、いつ誰が加害者になるかもわからない。
多くの人々は親になって子育てをすることになるだろうが、いつ自分の子供が加害者になるかもわからない。多くの日本人は「死刑囚になる人間がどんな環境で育っているのか」「どんな理由で道を誤るのか」を知らないのでは無いだろうか?その状態で刑事司法・行政の国民的意見を募っても意味がない。
さらに、殺人事件を犯したのに少年院を出所した後弁護士になった者や(サレジオ高校首切り事件)、長崎佐世保小6女児殺害事件のように小学生が小学生をカッターナイフで殺して加害者は社会復帰しているケース(2020年現在、27歳くらい)、2015年に本を出した神戸連続殺傷の酒鬼薔薇(事件当時の少年法にて無罪)、女子高生コンクリ事件の犯人グループは出所・主犯格の一人が2018年に別件の殺人未遂を起こして逮捕、・・・・というように、殺人を犯しているが一般社会に復帰しているケースも多々あるのである。
私が逮捕や死刑が対症療法的だという意味がお分かり頂けるだろうか。
これまでこの国で何度も殺人は起こってきた。そしてその都度犯人は社会から除去されてきたが、同様の事件は繰り返されている。人を殺しても一般社会に復帰している人、そもそも逮捕されていない殺人事件など無数に存在するのである。軽微な事件を繰り返してお咎めが無かったことを良いことに、「自分はバレない・捕まらない」と思い込んで事件を犯すタイプもいる。繰り返しになるが、犯罪者はそもそも教育水準・知的水準が低い上、異常者なのだから合理的期待・予測で動いていない。
死刑、無期懲役でない以上、凶悪犯罪者は社会に戻ってくるのである。「逮捕」「死刑」に頼る人々の発想は、社会から凶悪犯罪者を取り除くことに頼るものであるが、うまく機能しているとは言い切れない。性犯罪を犯して被害者に通報されて捕まったことを逆恨みし、出所後に被害者を探し出して殺害した事例もある。刑法を学べばわかるが、これは被害者を救済する・守るシステムではない。刑法システムから漏れたアウトローな人間が今、貴方のすぐそばで暮らしているかもしれない。
「好きで好きで仕方なかった。相手を殺して私も死のうと思った」
「刺した直後に彼が好きだといってくれた」
愛憎は表裏一体である。
「それほど人を好きになる気持ちはわかる」
とメンヘラ女性陣の共感を集め、美人に弱い男性陣からは
「犯人かわいい」
「愛されるのも大変だな」
「俺も刺されるぐらい女性に好かれてみたかった、まぁ童貞だけど」
というようなネット書き込みが多くされて話題になった。野次馬が撮影した写真もSNSで拡散した。SNSは基本的に社会に害しかもたらしてないと思っているけれど、こういう時にはたまに役立つ。
酒鬼薔薇事件や秋葉原通り魔のような、無差別殺人・猟奇的殺人を除けば、ほとんどの殺人事件は、個人的怨嗟・怨恨が原因である。つまり、被害者と加害者は顔見知りであり関係が近い。つまり、殺人というのは社会への恨みか個人への恨みで発生するのである。
統計を見ると、親族、交際相手・配偶者、友人、顔見知り、職業上の関係というように、事前の関係から何らかのトラブル、怨恨に発展して殺害されているケースが多い。男性に限っては女性のようにレイプされる・性的な衝動で攻撃されるというケースが無いため、ほぼ顔見知りに殺害されていることになる。女性は性衝動に煽られて行動したレイプ魔にその延長線上で殺害されるケースがあるが、男性の場合は無い。
この世界に生きている以上、貴方もいつ誰に殺されるかわからないのだ。個人的怨恨の場合、理不尽な逆恨みのケースも少なくない。関係が近い相手に殺されるというのは、寝首を搔かれるような不意打ちをくらう可能性があり、警察や司法からの救済は間に合わないケースが大半だろう。日本で発生した多くの殺人事件で、「なぜ防犯できなかったのか?」という疑問が湧くが、シンプルに犯人が顔見知りで、被害者自ら鍵を開け、家に招いた後に襲われるなどのケースが多い。
例えば、貴方が「ただ安定しているから・平々凡々に暮らしたいから」という軽い動機で公務員(市役所職員)になったとしよう。市役所で生活保護受給窓口に回されていたとする。部署的に、やはり問題がある人間が多く訪れるため、
「自業自得な奴らばっかりだな・・・」
と貴方が思っていたとする。そこに、ある日、ものすごく追い詰められた人間がやってきて、忙殺されている貴方は少々事務的な対応で弾いてしまった。これに対して逆恨みした犯人がある日ガソリンを持ってやってきて放火、貴方は死んでしまった。・・・・・・実際、世の中の殺人事件はこんなノリで起こっている。
他にも、例えば貴方が「給料が高いから」という軽い動機で銀行員になったとしよう。融資を担当している会社の社長さんが金銭苦で自殺し、残された娘・息子が逆恨みで銀行員の貴方に復讐、なんてノリもありえる。金銭を巡る人間ドラマでは、だいたい、銀行員だとか貧乏な町工場の娘みたいなものが出てくるが実際にこういうケースが多々ある。
エリートの集まりであるメディア、出版業界において、例えば漫画の編集者などは日々明日を夢見る作家の持ち込みを受け付ける側であるが、冷たくあしらっている人も多いだろう。
京都アニメーションスタジオにガソリンを撒いた青葉容疑者は前科があり、その時に関係を持った法曹関係者はこう言っている。
「よく青葉容疑者は、ペンやノートを借りていた。聞くと『小説を書いている』『アニメが大好きで、コンテストに応募する』と言うんですね。けど、とても文才があるとは思えない。ある時、少し読ませてもらったがアニメの主人公になるような若い女の子が登場するようなストーリーですが、誰が読んでも素人作品でした」
「よく聞くと、コンテストに応募したのに、それを主催者側が勝手に使ってアニメにしたというんです。最初は妄想みたいなこと言っているなと相手にしなかった。変なこと言って暴れると大変だから、それ以上は何も言いませんでした」
「小説が盗まれたとか、変なこと言えば反省がないと、仮釈放に影響します。しかし、アニメや小説のことになると、我を忘れ、止まらなくなる。何しでかすかわからないような感じでした」
「えらい真剣な表情で、紙にまで書いて説明するので、まずいと思ったので、なだめました。出所後の青葉容疑者に会った知人から聞いたのですが、『(自分の作品を)パクったヤツに復讐する』と刑務所と同じように話していたそうです。本当に青葉容疑者は刑務所で話していたことを出所後、やってしまった。まさか、やるとは思いもしなかった」
死刑問題に当事者意識を持って考える必要がある理由がお分かり頂けただろうか?
どんな危険を避けられた人でも、その人が所属する集団の存在を許せないという者たちからの攻撃をかわすことはできない
ーデモステネス
恨みを買いやすい職業・殺されやすい職業というのがある。昔から筆頭として挙げられて来たのが、弁護士、検察官、警察、裁判官、税務署員、政治家、銀行員、医者である。
弁護士は常に身の危険に怯えており、実際過去には一家惨殺されるケースもあった。医者・医療関係者は医療裁判や逆恨みに怯え、例えばアングラな患者が処置に不満で医者・看護師に復讐したようなケースもある。2009年には西成のマザーテレサと呼ばれた女性医師が変死しており、一度は自死で処理されたものの遺族の訴えにより他殺で再捜査されている。税務署員は無理矢理お金を巻き上げていく存在で、処置次第で対象者を経済的に叩き落とすから当然恨まれる。世の中には反社と関係がある企業、反社が役員の企業等もあるから、調査に入った先の危ない社長に監禁されたり、帰宅途中を襲撃されたりする事例が実際にあった。元税務署員の書物でも読めばわかるが、相当に戦闘色の強い仕事である。警察は言うまでもなく対抗勢力に顔写真を撮られマーキングされたり自宅を襲撃されることもあるし市民からも嫌われる。銀行は強盗に遭う危険性はもちろん、業務が詐欺的なので昔から恨まれやすい上、場合によっては政官財が絡む汚職に関与したり内部闘争・権力闘争の果てに怨嗟があったりする。銀行が絡んだ汚職事件、関係者が失脚している闇の深い事件はあった。現在内閣総理大臣の安倍晋三は自宅・事務所に暴力団から火炎瓶を投げられていたりするし、橋下徹は弁護士時代は893と激しい駆け引き、政治家時代に毎日のように脅迫を受け、家族(奥さん・子供)に対する脅迫はもちろん、役所に爆破予告も届いていたというから、政治家も命賭けで、官僚も含めて政治・行政関係者は不審死も多い。昭和・平成初期にはこれらの職業は本当に命懸けであった。日本の歴史上、これらの職業は報復を受けて命を落とした者がたくさんいる。
特に権力の中枢に近い界隈での不審死は多い。
【近年の怪しい不審死リスト】 1. 2006年1月18日 野口英昭氏・安倍晋三の講演会、安晋会の理事でライブドア・グループのエイチ・エス証券副社長 沖縄那覇市内のホテルで死体となって発見された。堀江氏の元側近で偽計取引のキーマンだった。 2. 2006年11月26日 森田信秀・森田設計事務所社長 安晋会会長ヒューザー小島進社長から設計の依頼を受けていたが全裸で鎌倉の海で死体となって発見された。自殺として処理された。 3. 2006年12月3日 竹中省吾裁判官 第一次安倍政権下の不審死。住基ネット(今のマイナンバー制度の前身)に「違憲判決」を出した3日後に自殺。首をつって自殺とされたが不自然だった。 4. 2006年12月17日 朝日新聞論説委員・鈴木啓一氏 東京湾に浮かんでいたところを発見され、「自殺」として処理された。リクルート事件のきっかけとなるスクープや政権批判の記事などで朝日の看板記者だった。最後の記事は死亡の翌日に掲載された「りそな銀行、自民党への融資残高3年で10倍」。 5. 2007年5月28日 松岡利勝農水相 衆議院宿舎の自室(1102号室)で首を吊っているところを発見され、慶応大学病院に搬送され死亡が確認された。現職大臣の自殺は日本国憲法下の日本ではじめてのことだった。献金問題報道や米国毒牛輸入の解禁に抵抗し、政権にとっては邪魔になっていた。司法解剖もせず謎が多い。 6. 2007年5月29日 山崎進一・緑資源機構元理事 前日自殺したとされた松岡農水大臣に政治献金をしていた疑惑が浮上し、28日まで事情聴取を受けていた。森林開発公団による官製談合事件の調査のさなかにマンションから投身自殺した。大物政界と接点 連日の訃報異常事態と当時の新聞も報じている。安倍首相による官邸での記者会見は「政治とカネ」疑惑への言及は一切なかった。 7. 2013年4月17日 内閣情報調査室参事官・加賀美正人氏 都内自宅の浴室で、死亡しているのが見つかった。浴室内に練炭がたかれた跡があり自殺として処理された。 8. 2013年 消費者庁審議官・神宮司史彦氏 夫婦で同じ日に自殺したが場所は別々のところ。ガチャ規制を推進していた。 9. 2014年 岩路真樹・報道ステーションディレクター 部屋のドアを目張りして練炭自殺、生前、「自分は絶対自殺しない、死んだら消されたと思ってください」と言っていた。甲状腺と被曝の手抜き除染等の番組制作。これを追求しようとした写真週刊誌フラッシュは当該号販売中止。 10. 2015年7月 神原紀之内閣参事 特定秘密保護法を治安維持法として批判していた。屋久島の岩場で死体となって見つかる。 11. 2016年2月11日 野田哲範氏・自民党山田健司衆議院議員秘書 西宮市内の路上に駐車された乗用車の中で変死死体となって見つかった。顔面の損傷が激しく身元特定にてこずっている。山田議員の不正を週刊誌に告発し「検察に行く」と言い残していた。練炭自殺として処理された。 12. 2016年5月12日 UR所管国交省職員 UR問題が表面化して甘利明国交大臣が入院した直後、合同庁舎3号館より飛び降りて自殺?した。 13. 2017年3月6日 田中造園土木社長の秋山肇氏 森友学園の8億円値引きの根拠となった残土処理を請け負っていて、「国に言われて埋め戻しをした」と証言していた。豊中市役所のトイレで自殺したとして処理された。家族の心臓発作を起こしたという証言と食い違っている。喉をかきむしった後があり毒殺説が出てきた。 14. 2018年3月7日 近畿財務局上席国有財産管理官・赤木俊夫 神戸市内の自宅で自殺。彼は払い下げ価格交渉を背負わされていた池田靖統括官の直属の部下だった。そして文書改竄に直接かかわっていた。事情聴取も受けていて政権にとっては、しゃべられては都合が悪かった。
意外かもしれないが、公認会計士も命の危険がある。政官財が関与している危ない事件に関与し、監査中に不審死を遂げていたりするケースが実際にあるのだ。不正をしてません、と保障する仕事であり、しかも扱う案件にかかる経済的利害関係者が多くその額が大きくなるから最悪ヒットマンを雇われ狙われてもおかしくない職業の1つである。圧力をかけられることもあるだろう。クライアントと共謀して不正にお墨付きを授けた会計士の事例もある(不正について経済的認証を求められやすい職業だ)。そもそも日常業務の監査が監査先の経理担当者から恨まれる仕事である。たまに、政治家が「うちの党は会計士を入れて監査しているから大丈夫だ」と言ったりするが、会計士というのは自署で公正性・適法性を担保する仕事であり関与する案件によっては圧力を受けたり(そもそも監査先から金をもらう)、そもそも監督官庁は金融庁なので、官僚や政権与党に抗えない立場である。会計士はおまけで税理士資格もついてくるが、税理士業務をやっても経営者から恨まれることがある。
あらゆる士業の中で、弁護士が圧倒的に殺される率が高いのは、その他の士業は監督官庁があって基本的には行政の犬であるのに対して、弁護士は自治が認められており、行政に対して反抗する職業であるからだ。だから、政官財ぐるみの巨悪に首を突っ込んだら、社会的信用がある職業だけに国民も目を向けてしまうから、最悪の場合、国家権力と莫大なマネーと反社会的勢力を同時に敵に回してしまい消されてもおかしくない。よく弁護士が「私は巨悪と戦って来ました」みたいなことを言うが本当の巨悪と戦うのは困難だ。加えて、離婚問題では、他人の夫婦問題に介入して、法律・論理で無理矢理落とし所をつけるがこれは相当に恨みを買いやすく、離婚案件に関与しただけで逆恨みで殺されている弁護士もいる。資格試験のパンフレットには書いていないが、法曹は相当恨まれる仕事である。
私の先輩が離婚した際、
相手の弁護士を殺したいと思った。一生顔と名前を忘れない。
「女性の自立」
「男尊女卑が許せない」
「養育費踏み倒しなどの悪が溢れかえっている」
「男性に頼らず負けず女は強く生きる」
という発想の輩が多いため弁護に熱が入る。女の気持ちがわかるのは女ということで、女側に女の弁護士がつくことがあり、心情的に連帯した弁護士が法律を武器に家庭事情にグサグサ入り込んでくるがこれは相当に恨みを残すことが多い。そもそも離婚というのは、合意すれば離婚に至るのであり、これを裁判離婚に依頼しようとする時点で泥沼なのである。弁護士になりたい人間は、「企業社会で働きたくない」「ずっと仕事に困らずやっていける強い資格が欲しい」というような控えめな理由か、もしくは「一人で大きな力を持ちたい」「社会正義を実現したい」「悪を打倒したい」と考えているタイプ、好戦的な人間が多いが、おそらく殺される確率が高い仕事である。訴えた被告側に恨まれるのはもちろん、納得のいかない結果だった場合、依頼人からも恨まれる。世間を騒がせた刑事事件の被害者の手記を読むと、弁護士に対する恨み節も垣間見える他、注目度が高いと世論を一気に敵に回すことも多い。これほど四方八方から嫌われる仕事はなかなかない。そのリスクに加えて、合格・資格取得までの長い勉強プロセスの代価としてのあの年収なのである。レジェンド弁護士・弘中惇一郎氏の自著にある通り、金目当てでなるには割りが合わない仕事である。
記者・ジャーナリストも不審死が多い。危ない案件に首を突っ込んでいた記者の遺体が東京湾で見つかるだとか、「私が自殺したら消されたと思ってください」と常々言っていた人間が自殺を装った形で発見されたりする。週刊文春のようなことをしていたら恨みを買うケースがあるのも当たり前で、サカキバラ事件の犯人を突撃した記者は「命懸けで来てんだろうな」「お前の顔を覚えたぞ」と脅されている。昔ビートたけしがフライデーを襲撃したことがあったり、橋下徹のような知名度・発信力のある人物に朝日新聞などはボコボコにやられたり、法廷に引きづり出されたりする。
漫画家のような職業は家での作業がほとんどのため、人間関係も限定されており、安全だと思うだろう。しかし、2000年に、東京都江東区亀戸のマンションで当時28歳の女性漫画家Aさんが何者かに殺害される事件が発生し、室内にあった300万円の現金は手つかずの状態だったというからこれもなんらかの怨恨である。そもそも、漫画家・作家業界は売れる・売れないの落差が激しく、同じ志を持った仲間同士で繋がったりするとここから嫉妬などのトラブルに発展しかねない。ONEPIECEの尾田栄一郎も殺害予告されているし、黒子のバスケ脅迫事件は加害者の渡邉博史が事件後に「生ける屍の結末」という手記を出したことでも話題になった。今の社会の閉塞感から自殺することを選び、最後に社会的成功者の象徴である人気マンガの作者に一太刀浴びせて死んでいきたいという犯人の心情が記されている。「社会的成功者」の象徴として漫画家をターゲティングするあたり、そして事件後に手記を出したり、公にしている声明文を見る限り、作家業に憧れていたのだろう(社会的成功者=漫画家と連想するのは普通ではなく、ましてや攻撃の対象とするのは嫉妬だろう)。「愛憎」というか、被害者の職業に対する加害者の趣味趣向・執着と関係している。漫画家として成功した藤巻への嫉妬、社会への自己顕示という動機でなされたこの事件には実刑4年6ヶ月が下っている。
「こんにちは。黒バス事件犯人の渡邊博史です。大きな騒動となっている『絶歌』について自分なりの意見を述べさせて頂きます。今回はある一点に絞って書かせて頂きます。
“――なぜ人を殺してはいけないのか?――(中略)
大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」(元少年A『絶歌』太田出版282頁)”世の中からごうごうたる非難が浴びせられているこのくだりの是非です。恐らく最も多いのは「苦しむのはてめえじゃなくて遺族なんだよ!」という趣旨の批判だと思います。自分はその批判には同意できません。その理由をこれから述べて行きたいと思います。
防犯の施策は犯罪者の我が身かわいさに依存しています。警官の増員や防犯パトロールの強化、監視カメラの設置などは「悪さをしたら必ず捕まえるぞ!」、厳罰化は「必ず長くムショにぶち込む(死刑にする)ぞ!」という犯罪者に対する恫喝です。「捕まるのも、ムショ暮らしも、死刑もイヤだ!」という犯罪者の我が身かわいさによって成立しています。
少年少女による動機不明(あるいは理解不能)の殺人事件は、数は多くないものの、神戸連続児童殺傷事件以降も発生し続けています。これは一般的な防犯の施策がこの手の犯罪には効果がないということです。なぜ効果がないのか? それはその手の犯罪の担い手たちが我が身かわいさを持っていないから、捕まっても死刑になっても構いやしないと考えていたり、あるいは逮捕後のことなど何も考えていなかったり、あるいは考えられなかったりするからです。
人間は面倒臭い生き物で、
1、養育者などから思いやりを以て接してもらう
2、結果として我が身かわいさを身につける
3、それが発展して他者への思いやりを身につけるという段階を経ないと正常な情緒を持てません。幼少期の生育環境に問題があったりすると1がありませんから、必然的に2も3も欠如した犯罪傾向の強い人間ができ上がってしまうのです。これがいわゆるサイコパスと呼ばれるタイプの人間だと2も3もないどころか情緒そのものの欠損とでも表現すべき状況ですので、物凄く犯罪傾向が強くなってしまうのです。
脳科学の進歩のお陰でサイコパスは単なる「異常性格者」なのではなく、「原因は不明だが脳の一部に機能障害があって、そのせいで情緒に欠陥が生じている人」ということが判明して来ています。つまり立派な病気なのです。
自分が留置場で暮らしていた頃のことです。実刑が確実な状況の若い窃盗犯にベテランの警官が教え諭すように「どうせ反省なんかしないんだから、刑務所では刑務官さんの言うことをよく聞いて、一日でも早く外に出られるように頑張りなさいよ」と言いました。この「どうせ反省なんかしないんだから」という言葉は「基本的に反省する奴なんかまず居ない」というベテラン警官の相場感を表したものです。自分はこの相場感に完全に同意します。
刑務所生活を始めてから自分は多くの同囚と話をしましたが、反省している人など見たことがありません。これは自分だけではなくベテランの同囚も同じことを言っていました。「もう絶対に悪いことはやらない」と言っている同囚も居ましたが、その理由は「刑務所がつらくて、もう二度と来たくないから」か「家族に申し訳ないから」です。「反省したから」でも「被害者に申し訳ないから」でもありません。
人間は懲りこそすれ、そうそう反省などできない生き物なのです。性格に可塑性があるのは遅くても思春期まででしょう。幼少期に体得し損ねた他者への思いやりを改めて身につけるのは限りなく困難だと思います。自分がご厄介になっている刑務所はA級(初犯かつ短期刑の受刑者向け)です。同囚の大多数は恐らく少し性格傾向に問題があって規範意識が低いくらいの人たちです。重篤な人格障害罹患者やサイコパスはまず居ないと思います。この程度の犯罪傾向の軽い人たちでも反省できないのです。
よってそもそも脳の機能障害由来の病気であるサイコパスに反省を求めること自体が無理筋であるように自分には思えてなりません。それでも大罪を犯したサイコパスに他者への思いやりを獲得させ、それに基づいて被害者への贖罪意識を目覚めさせるというスキームに則った矯正教育を施したという事実それ自体には意味があることかもしれません。ただし教育を受けるサイコパスが無期懲役囚か死刑囚である場合に限られます。社会復帰の可能性が(ほぼ)ありませんから、効果がなくてもさして悪影響がないからです。
しかしA氏のように少年という理由だけで半永久的な国家による庇護(=無期懲役)も、国家による地獄のような生からの解放処置(=死刑)も受けられずに、娑婆に放り出されてしまう気の毒この上ない重大前科持ちのサイコパスも存在します。このような事態を前に昨今の世論が何よりも重視する社会防衛の観点から最も大切なことは「反省」ではありません。何はともあれ「再犯防止」です。
人間というのは実に利己的な生き物です。我が身かわいさと他者への思いやりが欠如している人間でも、周囲が適切な対応を取れば我が身かわいさならば後天的に身につけさせることはわりと容易ではないかと思われます。A氏に対して施された矯正教育も、まずは我が身かわいさを身につけさせ、そこから他者への思いやりや贖罪意識を持たせるというスタンダードなスキームであったろうと推察されます。
これで人間の悲しさか我が身かわいさまでは身についたものの、そこから先はあまり上手く行っていなかったという現実が露わになったというのが現下の騒動であると思います。あけすけに申し上げれば「世の道学者先生たちを納得させるような形で反省できてねーのは当たり前じゃねーか。だからサイコパスなんだよ。何を大騒ぎしてんだか」というのが、今回の騒動に対する犯罪加害者としての自分の率直な感想です。そして「人を殺すと結局はあなたが損をすることになるよ」という規則功利主義(規則を守るのは、それが最もよい結果になるという思考法)に基づいた効果のある言葉でサイコパスが罪を犯さないように誘導するしかありません。防犯は何が何でも結果を出さないといけないのです。
私見ですが、日本が曲がりなりにも戦後70年間、戦争にあまりかかずらわずにやって来れた理由も「我が身かわいさの反戦平和」とでも呼ぶべき原理が働いたからだと思います。日本人の戦争の記憶は元日本兵たちの「自分たちが軍隊や戦場でいかに酷い目に遭ったか」、外地の邦人たちの「引き揚げがいかに困難だったか」、銃後の臣民や少国民たちの「原爆・空襲・機銃掃討がいかに大きな被害をもたらしたか。戦後の食糧難と焼け野原からの復興がいかに大変だったか」など「戦争で自分がいかにつらかったか」というストーリーばかりが流通しています。
「なぜ戦争をしてはいけないのか?」という問いに「戦争をすると自分が苦しむことになるから」と答え続けたのが日本の平和主義の根本でした。これがもし「アジア諸国の人々を苦しめたから」というストーリーが戦争の記憶でしたら、恐らく昭和30年代には国民の圧倒的な支持の下に9条改憲と再軍備が実現していただろうと思います。
くどくどと書いて来ましたが、いよいよ結論です。「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いに対する「あなた自身が苦しむことになるから」という回答。それに対する「苦しむのはてめえじゃなくて遺族なんだよ!」という批判に対する自分の批判は「犯罪防止という観点からはA氏の回答は全く正しいです。『遺族』という言葉では殺人志望の少年少女を思いとどまらせることはできません」というものです。」
ー酒鬼薔薇、絶歌出版騒動に対する、黒子のバスケ脅迫事件犯人による分析・コメント
「黒子のバスケ脅迫事件犯人の渡邊博史です。本日付けで控訴を取り下げました。これにより一審の懲役4年6ヶ月の実刑判決が確定しました。
自分は今更になって気力がとても充実しています。刑務所での服役生活が楽しみで仕方がありません。自分のこれまでの37年よりも遥かにマシな時間を過ごせることだけは確実だからです。しかし4年後には刑務所から追い出されるのも確かです。それを考えると憂鬱になります。話は変わります。裁判資料を改めて読み直して気がついたことがあります。
初公判前に作成された供述調書では、被害企業のお偉いさんたちは総じて「犯人が反省しているとは思えない」という趣旨の供述をしています。これはマスコミによる「ごめんなさい」発言捏造報道に影響されてのものなのでしょう。一方で自分が「反省も謝罪もしない」と陳述した初公判後に作成された供述調書では一転して「反省も謝罪もないことが許せない」という供述が並んでいます。
犯罪被害者やその遺族、「被害者の側に立っている」と自認されているワイドショーのコメント屋のお歴々、「被害者に対する思いやりを持っている」と自負されている普通の人たちは、犯罪者が謝罪しなければ憤激し、一方で謝罪すればその信用性を疑って憤激します。
自分は犯罪者として世の中に聞きたいです。無反省の犯罪者が正直に無反省を公言して謝罪を拒否するのと、心の中で舌を出しながら反省の弁を述べて口先だけの謝罪をするのと果たしてどちらが悪いことですか? こちらとしては、
「アンタらどっちにしろ怒り狂うんだろ? せめてどっちかにしてくれないかなあ」
という気持ちで一杯です。正直な無反省と嘘の反省とどちらが倫理的によりマシなのでしょうか? 是非とも識者(笑)の方々にご教授を賜りたいです。」
ー黒子のバスケ脅迫事件を起こした際の刑務所からの声明
【西園寺による解説】 繰り返しになるが、犯罪者に賢い人物、知的水準・教育水準が高い人物はほぼいない。社会経済的成功を掴む能力が無い。彼らは「失うものが無い=無敵の人」として、社会に対する害悪を成す行為(=犯罪行為)を交渉材料に、不満であったり、構造改革を訴えている。言い分も非常に幼稚なものが多い。 世間は、「犯罪者の言い分など無視しろ」「犯罪者に構ってる余裕などない、どうでもいい」「みんな犯罪を犯してないのだから、犯罪を犯した連中など同情に値しない」という感じで無視しているか、あるいは犯罪が起こる理由・環境的要因などを知らない。ここに対して、犯罪者は「犯罪をするぞ!」という究極の交渉材料で世間と掛け合っている。世間を人質にしている。 社会に対する不満や改善点に目がつくのは誰もが同じことであり、各々政治家になったり、起業家になったり、言論人・思想家になったり、教育者になったりして合法的なアプローチで変えていこうとするが、犯罪者はその手段が稚拙という意味で壮大な「構ってちゃん」である。また、彼らが社会論を述べる際、「自分がこうなった理由=社会がこうだから」という論理であるが、これは社会人の世界で最も通用しない最底辺レベルの主張である。悪事を働いて、その理由を環境構造の欠陥に求め、社会論に昇華させる。これだと仮に言っていることが当たっていても受け入れられづらい。外部・第三者がその論を展開するのならまだしも、当事者が述べれば説得力が無い。逆に、成功した人間が同じように社会論を述べればみんな、聞く耳を持つだろう。 犯罪者は、社会に出ると誰もが発言権が無いことに苦しんでいたり、歯車の一部・砂つぶの一部として使われる虚無感、自ら起点になって影響を行使できないことに悩み苦しみながらもがいている現実を、自分だけある意味「無視」して、裏技を使おうとする。通常の健常な25歳が15歳の頃に悩んでいた・ぶち当たっていた・考えていたような思想・論理を25歳で思い描いて実行するような幼稚性がある。IQなどが実年齢をベースに算定されたり、精神病者が「幼児退行」を見せることからも、人は追い詰められると幼児化し手段を間違える。年齢が年齢ゆえ、追い詰められている・選択肢、可能性が無いという事情の果てに過激行動に移るのが彼らの特徴だ。「犯罪」に走る時点である意味インチキであり、そこの至る経緯や、当人のキャラクター・スクールカースト・ソーシャルカーストから、実は社会に「見下されている=無視されているor嫌悪されている」ことに気付かないか、あるいは気付いていても熱心に論を立てる。気付いていてどうしようもないから悪あがきをしているのかもしれない。 多くの犯罪者は教養水準が低いため、歴史をわかっていないが、仮に社会を無法地帯にして、「犯罪」という概念を希薄にすれば北斗の拳のように力が支配する社会になる。こうなると、「学校社会で片隅にいるインキャだった」「社会に出ても上手くいかない影の当たらないタイプだった」という積年の大怨が理由で犯罪を犯すタイプの単独犯などは、まず真っ先に死ぬだろう。つまり、犯罪という概念が薄いような社会統治・秩序性に欠ける社会にリセットしたとしても、結局低位に追い込まれる。そういう北斗の拳のような世界で生き残りそうな悪は、この世界でもなんやかんや巨悪として根を張っているものである。事実、社会にショッキングな事件を起こした人間のほとんどは、社会的に孤立していて、実行の際は自分より弱い者を狙った卑劣なものばかりである。凶悪犯罪は、そのショック性・異常性ゆえに多くの人は畏怖してしまいがちだが、大の大人が「小学校に乱入して小学生を攻撃する」「平日の昼間の歩行者天国で暴れまわる」などは冷静に見るとかなりダサいというか恥ずかしい(内閣総理大臣を狙う、皇族を狙うとかならまだわかるし、合理性もあり、何より少しダークヒーロー感はある)。 反社会的集団・アウトロー集団にも、組織・人間集団なりの掟、規律、ルール、仁義などがあり、統率の問題や出世争い・人事の問題、場合によっては分裂・抗争騒動に発展するが、世間を騒がせたショッキングな事件の単独犯などは、「アウトローの集団世界でも社会性を発揮できるとは思えない」ような思考・思想を持っている。倫理、合法、正当以前にどこに行っても人間集団の理がある。要するにワガママなのである。一口に「グレる」と言っても、取り返しがつかないパターンとそうじゃないパターンがあり、後者の場合、ソーシャルカーストは低くてもゆきぽよみたいなギャルを彼女にして、いずれマイルドヤンキーファミリーを築いて幸せになっていたり、あるいは芸能、飲食、建設、などの世界で社会経済的に成功していたりする。取り返しがつかないパターンは、社会性を失っている。正義論を、単純に「正悪二分論」で色付けするのではなく、「社会的か否か」という人間社会集団での許容性で捉え直した時に、多くの凶悪犯罪者の言い分は、どこの世界でもやっていけないように見える。これに気付いているのか気付いていないのかはわからないが、誤解を恐れずに言えば「日本赤軍」「学生運動」などがあった時代に比べて日本の「犯罪者のレベル」は、加害のターゲット、動機、全てが低くなっているように見える。同時に、社会論を持ち出す犯罪者の多くが結局、自らの社会的無能性を自らの社会不満論の中に隠し、結局自己本位・自己顕示の塊で、社会経済的成功を引き寄せる社会的能力に欠損があることが透けて見えてしまう。 元ヤンキー・元暴走族総長でも、立派に社会的成功を収めているようなタイプがいるが、彼らはアウトローの世界でそれなりに人間社会集団を登り詰める何かがあったから、更正して培ったものを応用・転用して修行すると真っ当な世界でも成功するし、実際そういう人間はいくらでもいる。元暴走族の裁判官、元ヤン社長、学歴はボロボロ・非行少年だったが実社会で成り上がった叩き上げ、など。 基本的に、社会というのは、私が「多数派の原理」と呼ぶミドル70%を中心に全体最適化された民主主義と、「少数派の原理」と呼ぶアッパーマイノリティに最適化された資本主義の2つのPrincipleで回っている。 資本主義が社会に資源配分の傾斜性(それに付随する名誉、異性=モテ、精神・時間・肉体の自由性に関する傾斜配分性)をもたらし、序列をつけることで内部闘争を避け希少資源を最適に配分、加えて悲劇・諸悪の根源である「経済苦」を避けるように全体をストレッチ、底上げをする構造になっている。具体的にはプラスサムに貢献する人間・グループをヒエラルキーのトップにつけて、社会経済全体を牽引し、底上げするようになっているのが資本主義のマクロ的な意義で、これが世界に浸透すれば、グローバルに経済交流が深まり、国内的には社会経済格差による内部闘争は起これど、対外的には国家間の闘争、すなわち戦争は避けられる(逆に言えば、社会経済的格差に対する不満が大きなムーブメントとなり、急進的な政治勢力が出てきた時、グローバル資本主義の均衡が崩れて戦争の火蓋が切られる)。つまり、ある特定の人間社会集団や社会システムにおいて、トップにいるということは全体にプラスがある働きをするという人間である。また、こうすることで、「あるべき人間像(モデルケース)」が示されて社会的な人物になるようストレッチされる。そして、「あるべきでない人物像」「好ましくない働き」には低い報酬が配分される。この、「賞罰」「相対評価」「傾斜配分」はどこで何をしようが必ずつきまとう。これに反発して平等な世界を実現すると、フリーライダー、弱者、無能、怠け者、インチキ、不正・腐敗が集まり全体腐敗する。つまり、自らのソーシャルカーストに不満で社会破壊活動を行う場合、政権を奪い権力を握って「王」になるなどしない限り、自らの社会経済的無能性は変わらないのだから人生は変わらない(そしてそんな革命行為をやるよりよっぽど、自己投資やトレーニングをした方が社会経済的に上位に行ける成功確率が書い)。 これを「不平等の原理」とも呼べるが、「多数派の原理」は平等の原理であり、それを前提に合議で決めるのが民主主義である。民主主義の結実するところは法律であって、例えば殺人罪などは、この世界に社会経済的な格差はあれど、全ての命が平等に価値があり、これが侵害された場合には司法・刑法上は平等に処罰されることを意味する。基本的に日本では、生命・身体・財産に関して、無理矢理強奪されることが無いよう保全されており、そのための処罰や行政上の対応にも一定の平等性が担保されている。 犯罪者は、この2つのPrincipleが全くわかっていない。 例えば、相模原障害者施設殺傷事件の植松などは、障害者介護で働き、現場の悲惨さを知り、親族が障害者施設に投げ捨てるように放任している現実、障害者には意思決定の責任能力が無いとする日本の法制度(障害者などは契約の主体になれない、刑事罰を犯しても責任能力が無いため罪に問われない)、何ら生産性の無い障害者たちとその施設で働く者たちの苦悩を目の当たりにして、「障害者なんか生きてる価値は無い」と考え、犯行前に衆議院議長に手紙もしたためている。私は彼の論理は、部分的には当たっていると思う。事実、障害者施設で働いている人たちの間で一定の共感を得ていたり、健常者の事件と比べて世間の取り扱いが小さい。健常者と障害者が平等だ、と言っても、「女は年を重ねて綺麗になる」といった類の詭弁と同じで、「どちらか好きな方選べますよ」「(それぞれに)反対側に生まれ変われますよ」と問えば結果は明らかだろう。だが、彼の発想は「人権の基礎(命は等しく強権によって強奪されない)」を揺るがすものであり、一度、健常者と障害者の間に境界線を引いて合法的殺害を始めてしまうと、このラインが変化したり、また殺害対象者が増えたりしてしまうというシステム上(制度設計思想)の問題、手続き上の問題が視野に入っていない。このような発想だと、いずれ「次は高齢者」「次はニート」と対象が拡大する上、いずれ思想犯の類も知的障害者に混入される恐れもある。彼は帝京大学というFラン大学卒で、教師になるという学部過程だったため(しかも落ちてる)勉強不足・誰も教えてくれなかったのだと思うが(父親も教師だという、教師の知的レベルは低く、社会性も低い)、もう少しレベルの高い大学で、社会的な内容、例えば法学あたりを学べば良かったと思う。あるいは十分にディスカッションすれば良かったと思う。彼からすると、「障害者と健常者に同じ価値は無い」「障害者に生きてる価値は無い」「障害者は周りに不幸しか生まない」という思想・ラインを譲れなかったのだと思うし、ここに賛同しない人間は現場を見てない、外野から綺麗事を言っているだけという風に捉えたのだろう。そして、世間が本当は思ってる本音を、世間体の問題から言えないだろうから、私が実行してやるというスタンスである。彼の手紙を読んでもそれは伺える。 私は別に「障害者に健常者同等の価値が無い〜」は否定しない。だが、法学的な発想でもあるが、「実体」と「手続き」は別である。障害者に価値が無い(納税能力なし、生産能力なし、意思決定責任能力なし、社会的コストを食うだけetc)という点を認めたとしても、「手続き」として「殺す」というのは相当性の観点から行き過ぎは否めない上、すでに述べたように「価値無し」を実体的な観点から認めるならば、価値ある健常・正常な人間の定義の問題が発生し(人権天賦説を否定して人権が無い人間を決めるのであるから)、いずれこの境界が動いて見境がつかなくなってくる可能性がある。障害の定義もまた、曖昧になってくる上、判断当事者も設定しないといけなくなる(反対弁論・公聴会・意見聴取なども設定することになるだろうからその煩雑さたるや、である)。この曖昧さに、現代社会の基礎である人権を委ねるわけにはいかない。ヒトラーの本をよく読んでいたというが、植松の考えは優生思想の過激版で、70〜100年古い。合ってる合ってないの前に古い。ナチスドイツを見ても分かる通り、特定の民族・血統・遺伝子を持ち上げるやり方は、国家として対外的な不信感も生みかねないし、JAPANは海外に嫌われたり取引してもらえないと終わりな国なので、優生思想に近いやり方は諸外国から「いずれこちらにも矛が向けられるのでは」と不信感も発生しかねない。 加えて、例えば「50代女性は20代女性同等の価値が無い、女は年を重ねて綺麗になるは嘘だ〜」が真なりとしても、ミクロ的に見たら需要があるケースもあるように(熟女マニアなど)、同様に障害者も誰かにとって需要がある(家庭において誰かにとって大切な存在)可能性があり、これは高齢者や専業主婦、犯罪者なども同じことである。逆に言えば、人を一人殺したらほとんど死刑にならない現行の日本の法運用は、まさにその見地から加害者の人権さえも考慮した結果であり、万人に人権は平等に担保されるという前提のシステムで成り立っていることの証左である。人権は天賦のものであるとし、その最たるものである、「生命の国家権力による強奪からの自由」には慎重に慎重を期して保全している。そこには、命の価値の判断と結果としての強制的除去を、人間が本来判断できないという思慮深さもある。ただ、苦渋の判断として、3人以上殺せばほぼ死刑なのは、明確な殺意がある・事故性が無い・被害者が多いため誤認があり得ない・国民感情が許さない、などなどの理由からである。もちろん、法定量刑上、一人殺しても「最高刑が死刑」の殺人罪が適用されるが、法運用慣習上、死刑になっていないケースが多い。 そして言うまでもなく、「法」「社会」云々の前に、人の道理として殺人は躊躇すると言うのが正常な感覚であり、死刑執行を担当する刑務官ですら、皆相当に精神を病んでいる。
2013年にはスイスと日本を行き来するファンドマネージャーが、運用トラブルで夫婦ともに殺害されている。著書も出した紀州のドンファンも2018年に怪死、2009年に起きた板橋資産家夫婦放火殺人事件の犯人は未だ見つかっていない。2019年には東京青梅市で普段から現金を見せびらかせていた男性が殺害されている。2011年には堺市のショッピングセンター駐車場で歯科医夫人の60代女性が現金約31万円やキャッシュカードを奪われて殺害され、さらに同年12月、同一犯が象印マホービン元副社長の80代男性宅に押し入り、現金約80万円を奪って殺害。
パイロット・CAは恨みを買いやすい仕事では全くないけれど、社会的な恨み、国家的な恨みなどの壮大なテロリズムに巻き込まれてしまいがちだし、何よりただでさえ事故リスクがある。この仕事には事件・事故の両方リスクがある。航空機事故で死亡事故に合う確率は約252万フライトに1回と物凄い低い確率であるが遭遇するとほぼ確実に死ぬ。2018年の統計だと、世界で事故死者が出た航空会社は15社、556人が犠牲になっており、毎年何らかの死亡事故は起こっているのだ。つまり航空関係者は毎年誰か殉職する。
大学教授は一見恨みを買わなさそうだが、2009年に中央大学の教授が元教え子に逆恨みされて刺殺される事件が起こっている。教授の助言を得て元教え子は大手食品会社に就職するが、わずか1ヶ月で退社。その半年後くらいに就職した電子機器会社でも試用期間中で打ち切られ、電子メーカーでも自ら自主退社した。後にホームセンターに就職したがそこでも客や同僚とのトラブルが絶えず、それが原因で教授を逆恨みして凶行に至ったのではないかとされており、動機については黙秘しているものの、「卒業前の忘年会で教授に話しかけてもらえなかった」「翌日の記念写真の撮影会に食あたりで出席できず、疎外されていると感じた」など不満を述べているという。2010年に懲役18年が確定しているので、この殺人犯はもう少しするとシャバに出てくる。
2020年には名古屋の名城大学で男性准教授(40)が同大3年の容疑者(22)に首を刺されている傷害事件が起こったが容疑者は殺害を考えていたといい、その理由が准教授の授業で単位を取得する条件だったリポートの提出期限を守れず、事件前、准教授から改めて「単位はあげられない」と説明され「頭に来た」という。理不尽極まり無いが、大学教授が学生から嫌われやすい・恨まれやすいのは事実だと思う。大学教授も「高所得」「ストレス度合いが低い」として知られる羨望される職業の1つだが、このようなリスクがある(今の時代は学生にネット陰口なども叩かれやすいだろう)。イスラム教徒にとって禁書とされていた書物の翻訳に携わっていた筑波大の教授が何者かにイスラム式の暗殺法で殺された事件もある(悪魔の詩訳者殺人事件,1991)。
商社マンなどのエリートサラリーマンは、海外に飛ぶ以上、現地の治安当局に拘束されたり、海外のテロ組織に捕まる可能性がある。そもそも、商社マンはサウジアラビア、中国、アフリカのような危険な地域にも行くし、「スパイだ」と言いがかりをかけられやすい。
会社で出世をしても他人に対する権力・権威的な力がついてくるため羨まれやすい。元社長に復讐、元上司に復讐、取引先に復讐などこの手のケースはいくらでも事例がある。多くの一般社会人が夜の飲みの席で上司の愚痴を吐いていたりするが、上司というのは恨まれやすいのはご存知だろう。上司というのは出世できない人間の矮小な見地から逆恨みされる(例えば、「税金引かれすぎ」などで怒る人がいるが、税金は国家が取っているのであって会社が取っているわけでは無い。定期的給与支給など、会社のありがたみも会社を辞めないと気付かないことが多い。コロナウイルスで、多くの人が「強制的に国民を縛る法律を実現してほしい」と願うのは大抵がサラリーマンで会社を休みたいからである。多くの自営業、例えば飲食店経営者などは全く逆の意見を持っている。そしてコロナの恨みを上司にぶつけている人もいるだろう)。また、セクハラだと感じられやすいが、「セクハラ」という言葉は、本来、職業上の上下関係を悪用して性的なやり取りをすることであるが、職権に基づく上下関係の前では相手が無理をしている可能性がある。例えば、35歳以上の男性と20歳前後の女性が自然発生的に会話する、というのは本来あり得ないのである。職場の人間関係は権力・権威・状況による決して自然発生しない半強制的なものも多いので、上司・先輩は基本的に嫌われている。場合によっては、上の立場の者は評価・報酬を左右し、その人の人生に影響を与えるかもしれないためこれも明らかに恨まれやすい構造にある。そもそも経済社会というものは、健全な競争の先の淘汰によって、より最適な事業・経済人が残るようになっており、不適切な事業、人材、資源は別の領域に移動することになるため、健全な淘汰プロセスがある。必ず倒産する会社やリストラされる人、職を失う人が出てくる。本来は個人としても社会としてもプラスの意味だが、この健全なプロセスに対して逆恨みする人もいる。
芸能人も多くの有名税を支払う。意外と知られていないが、山Pこと山下智久は2014年六本木で、赤西仁、錦戸亮といたところ、ある男性に声をかけられて口論になり、これをこの男性の連れの女性が携帯電話で撮影したところ、携帯電話を取り上げて立ち去った件で書類送検されている。ある意味かわいそうな事例である。2014年にはAKBの川栄李奈と入山杏奈がノコギリで襲われたAKB48握手会襲撃事件(懲役6年のためもう出所している)、シンガーソングライターの鬼束ちひろが住むマンションに花束を持ち30分近くインターホンを鳴らし続ける男が現れ警視庁渋谷署に住居侵入罪(ストーカー規制法違反)容疑で逮捕された事件、叶姉妹の恭子の実妹が宝石類4億を盗んだ事件や、恭子の父親が借金の申し出を断られた腹いせに恭子と美香を傘で殴り逮捕された事件、古い例だが昭和の大スター美空ひばりがファンの19歳少女に塩酸をかけられた事件や18歳の吉永さゆりの自宅にナイフとピストルを持ったファンが襲撃して来た事件、など芸能人も大きなリスクを背負っている。
もちろん、企業の社長もそうである。近年の代表的な例を挙げると、餃子の王将の社長が何者かに殺害された事件をはじめ、2019年末に浜松で飲食店経営者の社長が東京板橋区の会社役員に殺害される事件が起こっているし、2018年には名古屋のパチンコメーカーの社長が何者かに殺害される事件が起こった。2018年には尼崎で社長が従業員に殺害されて懲役14年の判決を神戸地裁が出している(日本では二人以上殺すと死刑の可能性が高まるが一人だと死刑ではない可能性が高い)。
「稼げる仕事は、
命が危険にさらされている」
男性なら社会経済的に成功すればするほど、女性なら家庭の円満を築くほど、意味不明な怨恨で何者かに攻撃される可能性がある。しかも、「貴方一人だけ」だけ殺害された場合、現在の司法では死刑判決が下らない可能性が高い。
女性が被害者になった事件として有名なものに、名古屋妊婦切り裂き事件(1988)や、名古屋市西区主婦殺害事件(1999)があるが、どちらも家にいる女性に対して訪問して殺害をしており、前者は妊婦の腹を切り裂いて胎児を取り出し腹に電話機を詰める、後者は鍵を施錠し普段から用心深い被害者が自宅で殺害されている、など顔見知りによる強い怨恨の可能性がある。両者とも未解決事件である。未解決事件として有名な、世田谷一家殺害事件も、奥さんの方が集中的に攻撃されている。実は、「職業別殺人事件被害者数」を見ると、意外と主婦も多いのである。(警察庁犯罪被害者白書)
普通に生きていても危険性はある。しかし、社会経済的に成功すればするほど、軌道に乗れば乗るほど危険性は増す。ただの事務職OLであっても勤務歴が長くなり、若者世代に指導する立場になっていたらこれもまた恨まれやすい環境である。若者は深い考えもなく、反射的におじさん・おばさんを嫌うものだ。キャバクラ嬢や風俗嬢は、客であるはずのおじさんの文句・陰口ばかりを言っていたりする。
繰り返しになるが、殺人事件などは、ほとんど顔見知りによって起こされている。しかも、些細な動機、勝手な逆恨み、相手の都合によるストレスの八つ当たりだったりする。
友はいつか敵になると考えて行動せよ
ーマザラン枢機卿
人生の1/3は睡眠、1/3は仕事に捧げられ、残り1/3が家族や恋人、友人・知人と過ごすとすれば、「職業選択」は生命のリスクを何に晒すのかという選択でもある。結婚のようなプライベートの選択も同様だ。エリートサラリーマンが、寝ている時に妻に殺されたというケースもある。18歳、20歳、22歳の段階で、自らの命を懸けている意識は、自衛官・警察官・建設現場作業員にでもならないと持たないかもしれないが、普通のサラリーマンでも年功序列で出世すれば下に多くの人員を抱え、関係性・接点が増え、多くの人間から評価に晒され、必ず嫌われたり憎まれたりするものである。職業人生は長いから、累積確率はどんどんと上がっていくのであり、この見地から職業選択をとらえ直せば、生き方・死に方の選択でもある。そもそも人生の1/3を捧げるのだから命を削っていることになる。
働きたく無いから、と家庭に逃げても無駄だ。2016年のデータでは、殺害事件の過半数が親族間殺人となっており、介護苦や夫婦間での恨みもある。働きたく無いから、と専業主婦になった女性は、将来の介護苦殺人の遠因となるし(旦那、子供にも負担をかける)、旦那サイドにも実親の面倒を見なければならないという事情があるだろう。もし仮に、配偶者や実親が、「あなたは働かなくても良いのよ、家にいて良いのよ」と甘やかしていたとしても、事実経済的負担は重く、また、いつどこでコロナショック・リーマンショックのようなことが起こるかわからず、何がきっかけで転落となり、苦境に突き進むかは未知数である。
2019年には農水省の元事務次官が引きこもりの長男を殺害する事件が起こった。この引きこもりの長男のせいで妹は結婚が破談になり後に自殺、母は妹の自殺と長男(引きこもり)の家庭内暴力でうつ病になるなど、家庭崩壊していた。父親は、数日前に起こった引きこもりが起こした川崎市登戸通り魔事件を見て自分の長男も同じ事件を起こしかねないと考え、殺害したと供述している。
貴方のことを殺してやりたいと思っている人間、あるいは衝動的に貴方に殺意を向けてくるような可能性のある人間はいる。そして、これは自身が成功すればするほど気をつけなければならない点なのである。なぜなら、自分が成功できて目の前の加害者が成功できないその「差」がそのまま刑事犯罪に転化されやすいし、相手が満足していて幸福であれば事件を起こさないだろう。世の中には想像を絶するほど頭の悪い人たちや、頭が悪くならざるを得ない人たち、心の闇が深い人たち、失うものがない人たちがいる。
本当に頭が悪い人は自分の頭の悪さに全く気づいておらず、例えば10しか能力が無いのに自分を100と自己評価していて、実際に100ある他人とを見て「どうしてこいつは自分より良い位置にいるんだ、許せない」「インチキしているに決まっている」「自分が否定される気がする」という身勝手な動機で攻撃行動に移ったりする。心理学でもダニング・クルーガー効果と言って、能力の低い人ほど過大自己評価であることがわかっている。あなたを恨みやすい人間ほど、頭が悪いゆえに沈んでいて、でもこれを他責・八つ当たりし、あなたを見て勝手に嫉妬・憎悪の炎を燃やしていたりする。自己評価の高さと他責思考は、ふとした拍子に牙を剥く。そもそも、「自分悪く無い、相手が悪い」と思っているから攻撃するのだ。恨みというのは、不平不満から発生するが、恨みを加害行為にまで発展させるタイプは不平不満の感覚がまずおかしい(そしておかしいから下に沈んでいる)。
誰にでも不平不満を嘆く時はあるが、ある程度は自分の非についても考えているはずである。しかし、何らかの犯罪を犯すタイプは歪んだ不平不満を「信じ込んでいる」。不平不満感覚が歪んでいるから、それ以前に社会経済的に下位に沈殿し、鬱憤が溜まり爆発寸前まで追い込まれている。世の中でよく、ダメな大人について「口だけの奴」と揶揄することがあるが、口で言っていることと行動(表)の間に一枚隔てがある、表にしていることと内心にややギャップがあるからそうなるが、これは多くの人が日頃から「社会性」としてある程度潤滑油的に善意の嘘(社交辞令)というオイルをまとい周りの歯車とうまく噛み合っていることを意味する。犯罪者は、この表と内心が悪い方向に向かって軸を持ち完全に合致してしまっている。「殺したい」と思っても本当に殺さないのが普通であり、誰にでも邪悪さがあるが犯罪行為を例えばTVゲームの中に留めておくのが普通だとしたら行動に移す人間とそうじゃ無い人間の差はそこである。つまりある意味ピュアであり、だからこそこの手の殺人犯などは中二病をこじらせたような供述をする。実際、精神鑑定にかけると幼児性が診断されたりするが、幼児性とは、うんこしたいと思ったら漏らし、保育園・幼稚園の先生のおっぱいを揉んで、女児の友達のスカートをめくり、このおもちゃが欲しいと思ったらぶんどるような直線的で主観的、後の展開への想像力に欠けた態度である。社会的生産物を欲するのに、自らは社会的生産を提供したくない・代価代償を払うのが面倒臭いと考えてしまう歪んだバランス感覚・社会性のなさ。コミュニティ・社会の中での自分を客観視・俯瞰できないことである。
そもそも、世の中には未だに「地球は平だ」とか「天動説が正しい」とか「幽霊が存在する」「金儲けは悪だ」と本気で信じ込んでいる人たちがいる。幽霊を本気で信じている人間は、心霊スポットで感じた不可解な現象を心霊現象と捉え、そこに恐怖を感じ、走って逃げるなどの行動を起こすかもしれない。金儲けは悪だと本気で信じ込んでいる人は、金持ちに検察の違法捜査が入るシーンを面白半分・本気半分で援護射撃する。同じ原理で、「障害者は社会に不要、全員死ぬべき」と本気で信じ込んでいて表の発露まで一貫した場合に、相模原障害施設殺傷事件のようなものや地下鉄サリン事件が起こる。地下鉄サリン事件は高学歴の信者を多く集めたが、そもそも18年〜20年間お上や親に言われたことを黙って受け入れてガリ勉してきたような人間がふと、大学や社会に出て、「学問と現実は違う」だとか「学生までの美しい世界と違って、社会人の世界は薄汚れている」と違和感を感じてしまった場合、彼らの根っこにある部分が向社会的なものから反社会的なものになる契機となりかねない。そこに、教祖が「救済するためにポアしなければならない」みたいな大義ある論理を振りかざせば、高学歴は如何せん歴史の知識などがあるものだから明治維新などと重ねて、「これは革命だ」と思ってしまう。
革命とは、客を招いてごちそうすることでも無ければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなお上品でおっとりとした雅やかなものではない。革命とは暴力である。一つの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである。ー毛沢東
フランスは卑怯にも、我々の祖国を日本に引き渡した。我が人民はこれまでフランスという海賊に水牛のように仕え、今度は日本という海賊の奴隷となった。ベトナムの二千万の人民はこのようなことには我慢できない。革命の闘士よ、蜂起の旗を高く掲げよ。祖国の聖なる呼びかけが今響きわたる ーホーチミン
ロシア革命が見事に成功したにも関わらず、中国革命は未だに名ばかりの革命にすぎない。なぜだろうか。それは強い革命軍がないからだ。強い革命軍があってこそ革命は成功するのだ。諸君、君たちは将来必ずや革命軍の中核となるのだ。革命の精神とは死を恐れないことである。中国4億人の民を救うことが諸君の使命なのであるー蒋介石
あの青年将校らは、私の大切な重臣達を殺した凶悪な者たち、反乱軍ではないか。・・・もしだれも鎮圧する気がないなら、私自ら近衛兵を率いて倒す。(2.26事件で多数の重臣が殺害されたとの上奏を受けたときの発言)ー昭和天皇
我々の後、一千年の間ドイツに革命は起きない。ーアドルフ・ヒトラー
偉人として歴史に名を残している吉田松陰や坂本龍馬は、犯罪者・外れ者・反体制勢力的な顔を持つが、まさにこういったものと見境がつかなくなる。実際、土浦連続殺傷の金川真大死刑囚は坂本龍馬を尊敬していると語り、中学の卒業文集で坂本龍馬の言葉を書いていたという。司馬遼太郎の小説から引用したものと思われているが、中学の段階でそのような読み物に目を通していたことは一見するとバカでは無いように見えるが、こういう見境がつかない感じが本物のバカの特徴なのである。ゼークト将軍の気持ちが斟酌できる。
「報復心ってのはここの連中、裁判所、検察に対して持ってるのさ。俺を閉じ込めやがって、無駄に生かしやがって、許さん!意味がないのに、あると思い込んでいる。バカだ、アホだ。ライオンの機嫌を損ねるなら、思い知らせてやる。俺の言葉を聞けんやつ、理解できんやつは殺す。1日ごとに報復ポイントが溜まっていくぜ!俺の機嫌を損ねるたびに溜まっていくぜ!」
「常識に洗脳された人間に、俺のことが理解できるかな!?」
「この世から犯罪をなくす方法がある。それは法律で犯罪を禁止しないこと」
「どうせ理解されないし、話したところで何の問題解決にもならない、というのが理由ですよ(まともに話さない理由について)」
「どいつもこいつもバカばっか!」
「死を考えたのは高校卒業間近です。さてさて、時は2001年、場所は日の本、進路に悩むこれなる男子の名は、性は金川、名は真大、人呼んで標準的人間、超凡人!!さあさあ、まずは大学に行く気なし、ついでに就職する気もなし、理想といえば幻想世界での冒険ときた。そこで男は死を選ぶ。しからばこの世に魅力を感じずとも合点が行くというもの」
「死は怖くない。死は怖いというのは常識に洗脳されている人間が感じるものだ。俺にはない。俺がたどり着いた境地はライオンの境地であり赤ちゃんの境地。つまり人間のガイネンが存在しない境地。無の境地と言えるかもね。何も無い。それがこの世の真実。あらゆる問題は存在できない。あらゆる答えは存在できない。あらゆる理由は存在できない。あらゆる必要性は存在できない。存在できるのは「何も無い」のみ。この世でもっとも正しい答えを教えてあげよう。この世でもっとも正しい答え、それは無いんです。と、言うのが、もっとも正しい答え。※善悪、正邪、好嫌、優劣、高低、これらは宇宙に存在せず人間のガイネン上にしか存在できない。ガイネン上で認識されたモノは相対的に認識されたモノで、絶対ではない。くだらん たとえを使ってみる。ココにステーキがあるとする。○○さんは食べて、オイシイと言った。でも俺はあまり肉が好きじゃないのでマズイと言った。さて、ステーキはオイシイのか、マズイのか、一体どっちなのか?上のたとえの変形バージョン。殺人は善なのか、悪なのか、どっちなのか?」
ー金川真大死刑囚(最終学歴:高卒 犯行当時24歳 2013年死刑執行)
いかがだろうか。
私は、若干、哀れに思えてくる。
ため息をつく感じだ。
小学生かな?中学生かな?と思うのが普通の感覚だと思うが、これが20代(犯行当時24歳)であり、自分が相手にされてこなかった理由に全く気付かず、「自分が悪い」という自己懐疑・自己疑念の念を持たないまま、プライドだけ高止まりし、
「生きたくない、死にたい、しかし自分が崇高な存在であることを証明するもしくは社会が間違ってることだけは曲げない」
という表現と破滅願望に行き着いた男である。この独善を加速させて歯止めを効かせられなかったのは希薄な人間関係・浅薄な人生経験。
この程度の知的レベルの人間は、時給400円でも、500円でも、600円でも良いからまず働いた方が良い。働くという言葉の語源は「傍を楽にする」だというが、自分が誰かのために力を尽くして感謝され、評価されて金銭的報酬をもらう、という経験の中で健康的な「自信」を身につける経験が絶対的に不足している。例えばバイトでもなんでもやれば、歳の近い人間がおり、仕事を通して助け合ったり、支え合ったりして、関係ができて飲み会に行ったりするものである。こういう基本的な経験が全く欠損しているとしか言えない。
この手のタイプは「客のために働く」というのは綺麗事に聞こえるだろうから、「雇い主のために働く」「仲間・友達・同僚のために働く」というものでも良いから経験すべきだった。何もわからないガキが順序を間違えて、坂本龍馬の本なんか読んだり、高校から半端に哲学に傾倒するからこうなる。
金川死刑囚は、ただの臆病で幼稚な少年に見えるが、父親が外務省のノンキャリアだったというし、哲学の本を買い与えられたことが思想的に歪み始めたきっかけの1つでもあるということで、悪い方向にこじらせてしまった感が否めない。高校卒業後の就職で挫折しているというが、昔から大学生に多いが実社会への適合に失敗しかけている人間が哲学の泥沼に嵌って社会性を失うケースは後を絶たない。哲学の内容云々の前に、これが育った古代ギリシャでは一時的に植民地等々を得て「暇だった」のであり、それ以前の世界はかなり合理性を欠いたカルト・神秘思想に覆われていたという時代認識が欠かせない。今の一定の合理性がある世の中で、哲学的な思考で世界を疑いすぎても特に効用は無いどころか自分が哲学に食われて死ぬ。バカのくせに偏った学識で大学用(高等教育)を先取り的にかじる・つまみ食いするからこうなるのであり、小中高の内容を抑えた後で、まともな大学は初期2年をリベラルアーツにあてて残り2年で専門的分野に入って行くセオリーがあるのはこういうバカ発生防止のためである。金川は永井均という哲学者の本を真に受けてしまっていて、
「世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね? 死刑以上の重罰はないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ」
というような氏の発言に背中を押されてしまっており、この論理を裁判中にも繰り出す。この哲学者は、「なぜ人を殺してはいけないのか」「人を殺しても良い」という事に近いことを書物で投げかけ、哲学特有のゼロベースで考え直す視点を紹介しているが、発達に問題がある幼稚で未熟な少年には禁断の書物であったように思う。古今東西、考えすぎによる心身衰弱で自殺者も生んできた「哲学」という学問は、この死刑囚のように社会で失敗した人間に将棋盤をひっくり返すような視点を与え、ただの負け組に他責的・破壊視点・虚無思考を与えてしまう。思索の範囲で他責・破壊的なものは心を軽くするかもしれないが、重度な自己愛性人格障害で自殺願望・破滅願望があるような人間には危ない。哲学は所詮童貞が作った学問。ソクラテス・プラトン・アリストテレスもそれ以前の虚妄的・カルト的傾倒に対してアンチテーゼとして効いたのであって、ソクラテス的問答法やクリティカルシンキングは何も生産しない。
多くの人が小学校・中学校ぐらいに通り過ぎた過程を20代になって発露させて、これで他者との差異や優位を誇っているように見え、投げやり(絶望)と勘違い(自己確信)のアンバランスの中、その根底に大きな欠落が見える。つまり、誰もまともに相手してくれないまま大人になってしまっているのが透けて見える。社会に自分の理解者がいることや、自分のことを鋭く見抜いてくるような人、尊敬すべき人、感動や驚きを与えてくれる人間がいる事に気付いていない、というよりは彼の世界の中に存在しない。供述には一貫して「誰も自分のことが理解できないバカばっか」という姿勢が見て取れるが、理解されたいという渇望の現れであり、普通の社会人の多くが
「どうしてお前のことを興味持たないといけないんだ?社会人は他人に興味を持たれるためにあらゆる芸や能を身につけたり、学や美を磨いたり、社会貢献活動をしているのだが?」
という論理がわからないまま24歳になって人殺しをしたのである。日本の専業主婦になりたがる女性と同等のレベルである。女性は攻撃性こそ無いし逃げ道があるから目立たないものの、発想としてはこの金川と同等の知的レベルがたくさんいる。彼は、子供のフェーズで欠損があるが、これは愛情が足りなかった人間の特徴で、「両親から愛や関心を存分に受けた後、これに飽き足りて、今度は社会に対して求めていこうとする健常な精神成長のプロセス」をしっかりと経ていない。だから人間的関わりというものが全てわからない。もしかしたら両親、特に母親に問題があるのかもしれないし、繰り返しになるが日本の女性は死刑囚レベルの知的レベルがたくさんいるから、例えば母親が狂っていて、その間接的な被害者なのかもしれない。母性愛の欠損なのか、対人関係がネガティブ・イグノランスから入っている。絶望の中にいて、悔しさと、自己顕示と、最後の悪あがきとしての外的破壊による自己肯定、自暴自棄的な社会へのメッセージ(壮大なかまってちゃん)、極度な自己愛性による自殺への恐怖と極刑の利用。
私はこれと実質同じ論理の、無駄に弁が立つニート、モノを知ってる風のニートをたくさん見たことがあるが、「絶望している」「生きたく無い」「何もしたく無い」「自分なんてダメ人間だ」と言いながらも、どこかで「偉そう」「生意気」「自分が賢い・正しい」と思っていることが多く「虚勢」という表現がふさわしい感じで、結局、実年齢に相応の精神成熟の段階をクリアしてきていないがために、権謀術数・魑魅魍魎・有象無象の「高い社会人のコミュニケーションレベル」の世界で浮いてしまっている。これを他責的に解釈してしまっているため自己改善せず泥沼にはまる。実世界でフィットできないから俗物的な世界と距離を置き、「ガイネン」で遊んでしまう。
「死は怖くない。死は怖いというのは常識に洗脳されている人間が感じるものだ。俺にはない。俺がたどり着いた境地はライオンの境地であり赤ちゃんの境地。つまり人間のガイネンが存在しない境地。無の境地と言えるかもね。何も無い。それがこの世の真実。あらゆる問題は存在できない。あらゆる答えは存在できない。あらゆる理由は存在できない。あらゆる必要性は存在できない。存在できるのは「何も無い」のみ。この世でもっとも正しい答えを教えてあげよう。この世でもっとも正しい答え、それは無いんです。と、言うのが、もっとも正しい答え。※善悪、正邪、好嫌、優劣、高低、これらは宇宙に存在せず人間のガイネン上にしか存在できない。ガイネン上で認識されたモノは相対的に認識されたモノで、絶対ではない。くだらん たとえを使ってみる。ココにステーキがあるとする。○○さんは食べて、オイシイと言った。でも俺はあまり肉が好きじゃないのでマズイと言った。さて、ステーキはオイシイのか、マズイのか、一体どっちなのか?上のたとえの変形バージョン。殺人は善なのか、悪なのか、どっちなのか?」
本当に頭が悪い。
2016年に新しく刑務所に入った受刑者約2万500人のうち、約4200人は知能指数が69以下だったという。つまり受刑者10人のうち、2人くらいは知的障害のある可能性が高いということだ。ついでに最終学歴はというと、中学校卒業がいちばん多くて40%くらい。次が高校卒業で30%くらい。大学卒業は5%しかいない。
相手によって話す内容を変える。
一般社員には危機意識30%、夢やロマン70%
主任クラスのリーダーには危機意識50%、夢やロマン50%
部課長クラスの管理者には危機意識70%、夢やロマン30%
役員クラスには危機意識90%、夢やロマン10%
ー永守重信
この手のタイプには、内容はどうでも良いから、
すごいでちゅね、よちよち、わーっ!ガイネンでちゅか!むずかちい言葉をよく知ってまちゅね、すごい!よちよち!
という全肯定から始めて、他者との肯定的な繋がりを育むという情緒的経験(褒められる、感謝される、必要とされる、それらを実感できる声かけや応対)、人間関係構築を教えなければならないので(世間のママが子供に10年ぐらい徹底的に付き合っただろうこと)、言い分にまともに反論・指摘もしても何の意味もない(そのレベルに達してないので酷)のだが、あえて触れると、
「ガイネン」に踊らされているのが自分だと気付いていない。教えてくれる人もいなかったのだろう。
ガイネン上で認識されたモノは相対的に認識されたモノで、絶対ではない。
と言っているが、自分で相対的だとわかっているのなら、相対的に自分の考えが社会の中で亜種であり「悪・邪・嫌・劣・低」になることがまずわかっていない。「絶対ではない」と言っているが、前提として社会的価値観が絶対だと思っていたのだろう、社会は最初から相対で動いている。だから多数派が強いし、少数派は「不平等の原理」の上位で無ければ苦しい。絶対と勘違いしているから本来社会が持ち合わせている相対的柔軟性や多様性に気付かないまま勝手に死にたいと思ってしまった。裁判ですら誰も絶対的正義と言っておらず相対的正義の実現であり、自分が言う相対的概念によって滅殺されていく構図に気付いていない。裁判で「善悪という概念が無いから殺した」と説明しているが、善も悪も他人に対してなされるものである以上、善悪を決めるのは他人である事に気付いていないのもかなり重症である。「悪だとわかってました、でも殺しました」と供述するならばわかるが、善悪は存在しないというところに反抗、自己主張が見える。原則他人が決める善悪について、自分はどう善悪感覚を合わせているかがいわゆる「倫理観」「分別」の類であり、合わせていこうと模索・思慮・自戒自制するのが「配慮」「思慮」「社会性」といった類のものである。善悪を独善的に断定し、最終的に「何も無い」と破壊的な虚無思考に至る有様は幼稚園児が何もかもをダーっと投げるのと同じで、これを「常識に縛られた人たちにわかるかな?」と知的に上段構えた感じは、自滅・破滅願望を抱えた他責型インキャはどうしようもない、「つける薬がない」と感じさせられる。「無の境地」「全ては存在しない」などと言っているが、このような発想は結局「何も考えていない」ことを意味し、これに至る論理を屁理屈こねて説明しているが論を立てた意味が無い論。という感がある。物理、化学、生物、地学の法則を「地球は無くなるから結局無だ」「太陽はいずれエネルギーを失うから全ては無だ」という話にこじつけているレベルで、これを20代半ば〜になってやりながら「常識に縛られている」と社会を糾弾し死んでいく様に言葉が出ない。
人は、興味→信用→行動で動くというのはCopy writingのPriciple(原則)である。彼は、自分の口で言っていることを本気で信じ込んでいるからその通りに行動したのである。ではなぜそのような信念に興味を持ったのか。人が興味を持つのは自分の欲、すなわちメリット・デメリットに関係することである。彼にはそのような信念に傾倒していくメリットと、逃げ込む理由があるだけのデメリットを抱えていたということになる。
満たされない現実の中で、より絶望を深めながら、社会的孤立、反抗、攻撃、脱線に突き進んでいくタイプであるが、誰も救済してくれない、相手してくれないために事実上全くレスポンスが返ってこない中でどんどん見境を失っていっている。
教育の成功とは例えば社会経済的成功者であり、教育の失敗とは例えば極刑に処せられた犯罪者である。何らかの形で社会性のあるものに興味を持たせ、信じるものを抱かせ、行動を促し、行動の結果としての何らかの社会的地位・居場所を得られるような態度・習慣を養う手助けをする。これが教育者の役目であり、親の役目である。親からそのサポートを得られず、社会で辛酸を舐めるばかりで、出身も社会も一切肯定できない人間が自責よりも他責に傾倒した時、犯罪が発生する。
ーDr.西園寺貴文
犯罪者というのはこういう心理なのだ。
上司や社長についてある程度思っても無いお世辞を言ってみたり他人と社交辞令を交わせるのが普通だとしたら、犯罪者は社交の仮面も持たず、悪い方向に向かって表と内心が一貫した軸を持ってしまっている。さらに不満についてだが、人生のほとんどが不満だらけだと「満足」を求める衝動が爆発し、手段を選ばないと強奪・暴力的になる。私だって、無人島で女1人男5人のシチュエーションに置かれたら輪姦に参加するかもしれない。
我々が善意で神対応を振りまいていたとしても、ものすごく精神倒錯的な依存性のある人物に強くコミットされ、ふとした出来事で勝手に「裏切られた」「嫉妬した」「腹が立った」と逆襲されることがある。憎悪という感情は、自分が好きだと感じているものに危害を加えられた時に発生するが、愛する対象への攻撃はもちろん、自分の愛の気持ちへの裏切り、そして自己愛への攻撃も憎しみに転化しやすい。
身近な他人の「愛憎の感覚」や「不平不満の感覚」の感覚に敏感でないと危ない。
何となく、私たちは「人を殺せば死刑」と思っていないだろうか。一人だけの殺害で死刑が下されず、犯人がいずれ社会復帰をすると考えた時、「逮捕」も「死刑」も何ら貴方を守るものではないことに気付いているだろうか?実際、息子・娘が殺されて、裁判で必死に死刑を訴えるも、長期の懲役刑で結審しているケースが多くあり、なぜか日本の司法は被害者の命は帰ってこないのに加害者を社会復帰させる。かと思えば、殺害の数が多ければ死刑にする。
私が、「国家の国家による国家のための刑罰」だと言っている意味がわかるだろうか。
私が社会心理学の勉強をしている時、興味深いデータがあった。世界中で発生した殺人事件の統計データである。殺人事件には「世界中で共通する」明らかに明白な傾向がある。犯人は「20代」「男性」であり、事件の原因は「被害者と加害者の間」において、「メンツ」をかけた争いの果てに生じている。メンツを潰された、自尊心を傷つけられたと犯人側が激情している犯行が多い。いわば血気盛んで、若くて元気なあまりモノを知らない世代が、感情的・突発的にやっているケースだ。
「ブルータス、お前もか」
ージュリアスシーザー/シェイクスピア
「秀吉のやつ、備中高松を水攻めなる奇策で攻めておるそうじゃ。ふふふっ、それを予に見て欲しいばかりに援軍を要請してきおった。毛利の最後は予にトドメを刺して欲しいなどと・・・・誠に“天下の面目”を施す天晴れな奴よ」
「毛利が滅びればいよいよ信長様の天下統一が近づいて参ります」
「予は天下統一後、明に侵攻するつもりだ。列強は次々と周辺国を植民地とし、この日ノ本に迫ってきておる。日ノ本も列強の属国と化さぬよう国土を増やし国力を高めねばならぬ。そのための明侵攻だ。」
「お、恐れながら、その企てはお考え直しください。ようやくこの長きに渡る戦国乱世が終わろうとしております。我ら家臣一同、日ノ本の天下泰平を築くため、信長様に全身全霊を尽くして参りました。しかし大国明との戦はさらに乱世を拡大させる冥府魔道への道。どうか、終わりなき戦へ道を進めるのはおやめください・・・・」
「光秀・・・・貴様はいつから予の企てに口を出すようになった?」
ー信長を殺した男 五巻
ー1582年 本能寺の変
余談だが、もし光秀が、漫画で描かれるように天下泰平を望んで信長の野望の暴走を食い止めたなら、後世での「裏切り者」の評判は修正が必要かもしれない。しかし、足軽上がりの秀吉を使い、当時全く人間扱いされていなかった黒人を外国人宣教師から引き取って部下にしていたことでも知られる天才・信長は常識に囚われない目で世界を捉え、海外列強の動きもわかっていたため、300年経って日本人がやり出すことをこの頃から企てていたというのが天才の天才たる所以の1つである。日本が欧米列強を打ち負かし、仮に世界最強国家パクス・ジャポニカーナを目指したとすれば、実現できたであろうタイミングは後にも先にも信長の時代が唯一だったように思う。16世紀以降は、ガリレオ、デカルト、ニュートン、パスカル、ボイル、ワット、ドップラー、ファラデー、ノーベル、ダーウィンなど、西洋近代科学の発展が凄まじく、欧米は日本と圧倒的な差をつけてしまう。後の秀吉が信長のビジョンを受け継ぎ、アジア侵略を画策して実行している。日本人VS列強の動きは広島に原爆が落とされた350年以上前から始まっていた。
毛利の手の下にあった広島は、信長の死後、秀吉による仇討ち後の世において、秀吉側にうまく擦り寄り、家康の世を耐えた後に明治維新の原動力となった。大日本帝国下で主要な土地として栄えて最後は原爆を落とされるという壮絶なストーリーがある。広島に原爆が落とされた遠因はこの頃、いや、平安時代にまで遡れるかもしれない。広島は中央と蜜月であり続けた歴史が長い。
「人殺しの論理」というものを考察した時、誤解、誤認、勢力争い、実行犯の信じる正義、集団や第三者の利害なども動機として考えられることがわかる。個人的怨恨はもちろん、感情論を超えて「この人間を武力で除去しないと社会構造が変わらない」という場合にも殺害は展開される。金があることを知られると身の危険があると考える人間がいるが、金以上に「社会的地位」も危ないのである。日本でも、直近10年のうち、多くの官僚や政治家が不審死を遂げている。民間の世界でも社長が殺される事件は起こっている。
だが、現在の日本の治安の良さは過去最高水準である。認知件数ベースだが、全国で見て殺人は年間1000件ほど。略取・誘拐が約300、レイプは約1500件、強制わいせつ約5,000、傷害22,000、強盗1,500、放火900。
普通に生きていれば99.99%は殺人に遭わない。性犯罪被害に関しても、10〜30歳の女性がターゲットだとし、同級生人数を50万人と仮定すれば1000万人が母数で、性犯罪の認知を約7000とし、暗数も概算で考慮して認知数の5倍だとすると(法務省調査で被害にあって届け出る女性はおよそ20%)35,000/1000万であるため、やはり99.99%以上の女性は被害に遭わない。10歳から30歳までの20年間連続として考えても99%の女性は被害に遭わない。
10万人あたりの刑法犯発生数は約1000(1%)であり、ここから自動車事故による過失致死などを除くと650程度(0.65%)にまで下がる。殺人に関しては10万人あたり0.24。
昔から、日本はただでさえ治安が良いと言われてきたが、今日、そのただでさえ治安が良い日本の中で過去最高水準の治安の良さを誇っている。日本の刑法犯発生数は、戦後に一定の水準であったが、90年〜2000年代かけて急激に上昇してピークをうち、現在は「戦後最高水準」で治安が良い。
私が思うに、90〜2000年代は日本が落下していくフェーズで、不幸に慣れていない人が多かったのだと思う。氷河期世代が社会に出た頃でもあった。現実に二極化が加速していく中で、社会構造的に怨嗟・怨恨が発生しやすかったはずである。
現在、
日本で起こる犯罪の50%は再犯なので、「人の付き合い方(誰と付き合うか)」を間違えず、かつ関係性に気をつければ良いというのが身の処し方としては基本である。
ブログの登場からはじまりSNSで結実した「個人情報晒し文化&ネットデバイスのポータビリティ性の向上」は監視性、可視化性を高めた。昔と比べて、「女子高生コンクリ事件」「桶川ストーカー殺人事件」などのような女性が被害者になる凄惨な事件は減ってきたように思う。もちろん、愛知県で起こった闇サイト殺人事件、神奈川で起こった座間9遺体事件のようにネットが新たな事件の温床になっているケースもあるが、それでも日本の治安は良い。
SNS社会は、事件・事故の予防や第三者的情報拡散にはかろうじて意義があるように思う。インターネット黎明期には、「出会い系サイト=殺人事件、ストーカーの温床」という空気であったが、「SNSやネット経由での出会いがカジュアル化」「ネット経由のパパ活」などがニュースになっているように、社会の99%は善人という前提で社会は進化する。
いつも思うが、日本人はどうも、自分たちで武装しているようなアメリカと比べて、「いざというときは警察が守ってくれる」という意識(他力本願)が強いと思う。この愚民化は秀吉の刀狩りから始まっているかもしれないが、「治安部隊が守ってくれない」、「司法が真実を明らかにしてくれない」を前提に考えた方が良い。
犯罪発生率が低い代わりに、発生した場合、警察・司法の愚鈍さに悩まされるだろう。彼らは統計で物事を見ているので、「99.9%の確率で事件は起こらないのに何かあるってこいつ(被害者)に原因があるんじゃないのか?」という論法で見てくる。ご存知のように民事不介入であり、明らかに刑事の事件性が無いと動かないし、動いたとしても貴方の安全は保障されない。事件性のある何かに巻き込まれた時点で危険である。加えて、事件現場に直面しても日本の警察は諸外国のようにすぐ銃殺するわけでもなく、武器装備も貧弱である。銃社会でも無いのだから、自衛はかなり難しい。日本は犯罪の種と出くわした時が最悪なのである。そして、一般国民も警戒心が薄いため、はっきりとした事件性が浮かび上がってくるまでは理解もされず、事前に兆候があった人を救えなかった事例がいくつもある。
そもそも地方公務員というのは非大卒・地方クラスタからしたら勝ち組であるが、大卒・都心クラスタからしたら負け組である。Fランを出てしまった人がかろうじて望みをつなぐ就職先、という感じである。エリートはまず「国家公務員」という枠組みから入る。入り口から違う、世界が違う。そんなに優秀な人材が就職する場所では無いので期待してはいけない(東京、大阪、名古屋あたりに住んだことがない地方民は地方公務員を勝ち組だと思っている節があるが)。
もし、警察・司法が事実上機能していない、と考えてみたらどうだろう。つまり、あなたが殺されかけても警察が救ってくれない世界。救済されたらラッキーぐらいの感覚で捉え直した時、世界に対する見方と意見は変わらないだろうか。つまり逮捕や死刑に頼る発想を抜きにした場合である。
「防衛大学校のプライドを胸に」
みたいな祝辞の後にワーッと制帽を投げる光景に憧れた自衛官、警察学校の前で母親と制服姿で写真を撮りそれを実家で額縁に入れて一家の誇りにする警察官、学校を出て学校に戻っただけなのに子供の前でモノをわかったフリし続けないといけない教師、こんな連中が何かあった時に
国民の皆さんすいませんでした
と情報公開して素直に謝るわけがない。
学校感覚、学生感覚の延長で社会人をしている連中である。いわゆる市中の民間の人間が身につけている感覚が彼らにはゴッソリ無いと思って良い。コミュニケーション能力も低いので話も通じないと最初から思っておいた方が良い。
個人業績に連動しない、信用という概念が薄い、身分保障されている、内向き排他的体質である、権威の上にあぐらをかいているのだからまともな仕事を期待する方がおかしい。もみ消すに決まっている。しかも上の意向が超重視される強烈な縦社会である。
万が一、路上で警察に違法捜査を受けた場合、その人間と話し合うより110番通報または各都道府県警察本部に電話した方が良い。公務員は基本的に上に働きかけるのが一番である(そして上の汚職については世間的に批判の的に晒すのが対処法である)。110番通報で繋がる先は「司令」であり、警察内部でも比較的上の方、少なくともチンピラ的に絡んでくる末端警察よりは上の方であるため、「交番レベル」「警察署レベル」で隠蔽されるのを防げる。もちろん行政不服審査の手もある。監督組織である公安委員会に直で問い合わせる方法もある。国民の言うことは聞かないが上の指令は聞く、そういう組織だと思って間違いない。金融、インフラ、公務員は全部そうだ。
ただし、上層部が絡んでいる汚職には、世間に晒す以外対抗する手段がない。これは大日本帝国時代の時から変わらない。学校では教えてくれないが、覚えておいた方が良い。どのレベルまで関与している汚職なのかを見極めるのが大事である。
昔、ジャパネットたかたが顧客情報を流出させた際、すぐに49日間の販売自粛を行い、150億円の減収になったが、「謝罪」「迅速対応」「原因究明」を優先させる考えから行った対応は危機管理の手本として賞賛され、翌期はV字回復。今日に至るまでの隆盛は周知のとおりである。目先の売り上げを大きく損失させながらも社会的信用の方を取った。
こんな発想はまず、公務員には無いと言っていい。なぜなら、警察も、学校も、検察も、裁判所も、自衛隊も、役所も何をやろうと潰れないからである。活動原資は税金で無理矢理徴収しているので「愛想尽かされたらどうしよう」ということは1ミリも考えない。私は何もテキトーに言っている訳ではなく、産業事故・ヒューマンエラーに関するデータベース、統計データを確認した上で、圧倒的に公務員組織の不祥事隠蔽が多い事実を指して言っている。
日本で事件に巻き込まれたら、犯人に殺され、警察に殺され、司法に殺され、マスコミに殺されるの4回殺されると思った方が良い。下手すると国民にも殺されて5回殺されるかもしれない。事実、日本で起こった凶悪事件の「被害者」がなぜかマスコミと国民の好奇の目に晒されるのに耐えかねて海外移住しているケースもあるのである。
法律を勉強するのは公務員対策のためにある。
日本の若者は国家国民のことなど考えず、「安定・名誉・権力」などと自分のことだけ考えて公務員になる。これがマジョリティである。日本の公務員には期待しない方が良い。
一部、まともな人間もいるが、こういう人間ほど早期退職する。特に警察組織などに言えるが、組織の現状を見てモラルの高い人ほどすぐやめる。公務員は鏡のような人ほどすぐ辞める、もしくはキャリアの途中で死んだりする。つまり残って働けている時点である程度おかしい人間、権力ポチだということを前提に対策しなければならない。日本の公務員は基本的に「悪」である。嘘だと思ったら、世間を騒がせた事件や社会悪の事件に関する行政・公務員の対応について調べてみると良い。反社会的勢力がかき集めたお金を被害者に還元する前に「所得は所得」と国税が優先的に差し押さえたり、女性がストーカーに刺された事件でヘラヘラ笑いながら警察署幹部が会見する、官僚が資料を隠蔽・証拠隠滅するなど、この手のことは何度も起こってきている。一昔前、小泉純一郎や田中眞紀子のような奇人変人政治家が旋風を巻き起こしていた時があったが、その際は国民があまりにも公務員をはじめとする既存体制に怒り、これを破壊するような邪道政治家が人気を集めたのだった。警察官の不祥事があまりにも多く胸のバッジに識別番号が付されたのもちょうど2002年頃から出会った。
民間人同士の世界で法律論を戦わせるのはあまり意味がない。これは、夫婦喧嘩を調停・離婚裁判で解決しようとする発想がもう泥沼なことからもわかると思う。例えば私なんかはもう車を自分で運転しないけれど、これは、警察の取り締まりやめちゃくちゃな法適用・解釈などに巻き込まれないためである。公務員の仕事の仕方は明らかにおかしい。そして、おかしい公務員の中でも市民に牙を剥いてくる存在でもある警察は、たまに、「税金をもらっておいてなんでそんな意味不明なことをやるんだ?」と首を傾げたくなる取り締まりをしている。だから私は彼らと関わる可能性がある危険因子を事前にごっそり取り除いている。そして、当然だけれど道路社会でおかしな人間と遭遇した時の危険性はものすごく高い。車に乗らないだけで刑法犯罪遭遇率が35%はカットできる。なぜなら刑法犯罪に占める交通犯罪の割合がその程度であるからだ。被害者にならない、加害者にならないという両方の観点からメリットがある。全く自分に非が無い状況で被害者になった時、警察は助けてくれるどころか余計に傷をえぐってきたり、時間を奪っていくことが多い。二度泣かされる。
実家暮らし勢にはわからないだろうが、社会人になって独り立ちをして、例えば家の鍵をなくした時にやってくる出張開錠サービスや、水道の詰まりを直してくれる出張サービスの多くは、ぼったくりが多い。当初掲げた金額で釣っておいて、「これは普通の方法では直せない」などと言って追加料金を密室・住所が知られた状況でガンガン請求してきたりするが、ガラの悪いお兄ちゃんだったりするから、例えば女性の一人暮らしの場合なんかは断る方法が無かったりする。医者のお世話になる病気、弁護士のお世話になる破産・倒産、なんでもそうだが、社会人経験を積めば積むほど「予防が大事」と知るだろう。「他人の不幸は蜜の味」を地でいくトラブル屋が沢山いる。実家暮らしと一人暮らし、地方暮らしと都会暮らしでは「何に怒るか」という感覚も変わってくる。私は若い頃からキャバクラや風俗、パチンコなどで金銭感覚をバグらせていたタイプだったから大丈夫だったが、一人暮らしをすると、インターネット契約や賃貸の初期費用、引越し費用などで意味不明な料金を取られたりすることは多々ある。世の中には、漫画家や歌手、自動車メーカーやスマホメーカーのように「欲しい!」と思われる商品・サービスを生産する業界もあれば、水道修理だとか鍵交換・車検のような「本当は払いたくない商品・サービス」を提供する業界があり、往々にしてアングラな勢力、グレーな勢力、悪徳商法はそこに蟻地獄をはっている(私の経験上、アングラな連中は、エリートの生息エリアである必需ビジネスの便乗商法をやっていることが多い)。私から言わせれば、金融と警察も悪徳商法の1つである。学生から社会人になるに連れ、私が言っていることの意味がわかっていくはずだ。
とにかく社会人になると、コンセンサス(合意形成)無くして強引に何かを裁定・徴収してくる世界、欲求ではなく必需に食い込み「他人の不幸は蜜の味」を地でいく世界に、本当に生きるのも嫌になるぐらい嫌気が差してくる。医師・弁護士・会計士・税務署員・銀行員・政治家・官僚・警察・不動産屋・教師・歯科医等が嫌われるのはわかる気がする。どんな形であれ、公務員と関わると良いことが無い。時間を無駄にして、イライラすることが増える。役所だろうがなんだろうが同じことである。逆に言えば、distanceを置くと物凄く幸せに暮らせる。
「CーPOP」に期待してはいけないのである。犯罪者もやばいが、犯罪者から守ってくれるサイドの人間もかなりやばい。そしてそもそも、警察力・司法は「正義の機関」ではなく、それはただのおまけで、本質は支配者階級の犬である。行政全般も一体何をしているのかわからない組織・人間ばかりであり、「期待しない」が基本になると思うし、加害者に見える場合が多いと思う。
だからこそ、極論を話そう。この国では、もし貴方が闇の組織のようなところやキチガイから狙われた場合、ほとんどTHE ENDである。権力上層部に目をつけられた場合も同様だ。これはホリエモンあたりが証明したと思う。警察にも司法にも守ってもらえない。アプローチは事後的なものだし、たとえ貴方が「逃げるために引っ越したい」と思っても警察が資金を出してくれるわけでもなければ、家をずっと警備対象にしてくれるわけでも、名前や身元を変えて暮らせるようにしてくれるわけでもない(世間を騒がせた少年犯罪の加害者の名前などは変更するくせに、被害者や狙われている人にその措置はしない)。この意味がお分かりだろうか?この意味がわかって、「銃社会反対」「死刑賛成」と言っている日本人はほとんどいない。
人を一人殺しても死刑にならないのだから、もともと社会経済的にキャリアが終わっていてシャバに嫌気が指している人間は、懲役覚悟で何かをしでかしてもおかしくない。もし貴方が誰かから強い怨恨を買って、ターゲティングされると、実は自衛の手段は相当乏しいということに気付いているだろうか?
敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ
ー豊臣秀吉
権力が、権威が、行政が、誰かが何とかしてくれると思ってないだろうか?この国と政治家と公務員に期待したら必ず泣かされる。
ー西園寺貴文
公権力が救済してくれないと考えてみてほしい。
私にとって、「公権力による救済」は「公権力からの横暴に対する」を意味する。そしてこれが、法治国家、権力が汚職にまみれていない現代的国家である。日本の公権力は汚職にまみれているが、海外のように警察を簡単に買収できるレベルでは無いのである程度の質は担保されている。行政不服審査システムによって、行政下部組織の怠慢を行政上部組織に上訴したり、司法に訴えたり、第三者委員会を使って検察を動かしたりするような制度は担保されている。逆に言えば、システムが腐敗している国では警察すらただの脅威でしかない。
【誰も教えてくれないオトナな話:西園寺の目から見たこの世のエグい仕組み】今の説明からもわかる通り、公権力のかなり上の方が関わっていて、しかも反社会的な勢力も利害を合致するような案件に首を突っ込んだ場合、この国では謎の怪事件に巻き込まれてしまう。そもそもイタリアなんかはかなりマフィアに牛耳られている国で、アフリカには事実上国家機能が停止しリアル北斗の拳になっているところもある。 内閣総理大臣安倍晋三の祖父、岸信介は満州でアヘンを売りさばいて、戦後、内閣総理大臣になってから国会に反社会的勢力を呼び入れて暴動鎮圧をしたりしているし、小泉純一郎・進次郎の家系もなかなかで、一昔前には「ハマコー」みたいに自ら「ヤクザをしていた」を公言するような国会議員もいて(しかも人気だった)、昨今の一義的に正義を決めつけた前提での反社会勢力排除機運は一周回って危険ではないか、と感じることもある。社会が「正義/悪」の二文法で回っていないため、真実の法則を読み間違えて正義と思っていた組織に殺されたり、悪と思わしき勢力の活動原理が読めなかったりするからである。私が思うに、日本社会は正義/悪、善悪というprincipleで回っていない。多数派の原理と少数派の原理で回っている。 警察を正義、反社会的勢力を悪、という単純な二分論で捉えていると、公権力の上の方が関わっている案件に首を突っ込んだら不審死を遂げたり、警察に隠蔽されたり、誰かに狙われたりということは十分にあり得る。日本は比較的平和で、システムが整っている方の国だからこそ、平和ボケしやすい。後進国や過去の歴史、それから犯罪史などを参照すれば、権力の闇は深い。日本では、政治に関わる人間の不審死や、上級国民による隠蔽、警察による身内の保護、米国で起きたエプスタイン事件のような話、政財官と裏社会との繋がりなど怪しい話は腐るほどある。 「正義」「悪」という二分論というよりも、欲や感情にまみれた人間がおり、あらゆる経済取引があり、競争社会・競争原理が根っこにあって、中には暴力的な方法を取る者がおり、権力の中枢にいるが腐敗している者・絡め取られている者がおり、悲劇的な環境で育ち絶望を抱える者がおり、怨嗟、嫉妬、愛憎があったり、自分を省みないで他責的行動を起こしたりする人間がおり、教育を受けられずに近視眼的・衝動的・軽薄的な行動をする者がおり・・・・という人間社会の泥まみれのがそこにあると考えた方が現実に即しているだろう。 国家行政が救ってくれる、正義の鉄槌が下ると信じて、過剰な正義感を持って生きているような人間に限ってポックリ死んでしまいがちである。マイホームを建てて、マイホームの周辺の騒音に怒りを立てて争いごとになって刺されるみたいな事件もあったりするが、私がマイホームを買わないのも「一体どんな環境変化が起こるかわからないから」である。私はもしかしたら「海外最適」されているのかもしれない。海外ではお上による正義が期待できず、ただあるのは自衛の原理である。
公権力が民間を救済してくれるとしても、24時間365日の保護サービスがつかない限り、結局は自助論になる。現実に迫る危機を対症療法的に警察が取り除いてくれたとしても、原因を取り除けず狙われている限りはいつか実害を食らう。そして、人的リソースのバランス、警察資源を考えても完全な保護を期待するのは不可能であるからやはり自助論である。
つまり(警察や司法制度による安心に頼っていた人は驚くだろうが)、原因を除去しない限り実害があるのである。ターゲティングされたらそうなる。こうなってくると、銃社会の方が安全である。
銃社会か否かというのは、「どちらが安全か」というより、何を危険かと捉えるか、である。日本は「狙われたら終わり」の国で(対抗手段がない)、アメリカのような国は狙われても対抗できるが銃器が出回る分危ない国である。
日本的犯罪の怖さは、死期を予期しながら暮らして、実際に死期を迎えている事件が多々あることだ。
たいていの日本人は、凶悪犯が出ても警察がすぐ捕まえてくれる、司法が処罰してくれる、「だから安心だ」と思っているだろう。ところが、一定レベル以上の凶悪犯罪では、犯人は警察も司法も全く恐れていない。場合によっては用意周到にやる。それどころか社会反発行為としてやっているケースもあるのである。こういうものが一定数出てくるということは、至近距離で出くわしたら、個人的に対処できない限り実害・泣き寝入りである。後の社会制裁も事後措置でしかない。実害を避けられない。体格差などを越えて女性や老人にも防衛力を与える銃器を禁止し、「警察がいるから」「司法があるから」と安心している日本人の発想は極めて危険である。1分1秒を争う現場、被害者が恐怖に襲われるその瞬間を無視して、マクロ統計での事件数の少なさを取り上げて平和と喜ぶ。警察を呼んでもすぐ発砲するわけでもないからとにかく遅い。どんな社会にも凶悪犯罪がある以上、その犯罪とどう向かい合っていくかであるが、日本は全体の事件数の少なさを取って、確実に発生する少数の残忍な事件を無視している。
つまり日本は狙われて追いかけ回されたら終わりなのである。もし、その案件が警察腐敗を絡んでいたら致命傷だ。事実、日本には危機を感じて、前々から警察に訴えていたのにどうにもならなかったという、ある種の予告的な事件がいくつもある。ストーカー規制法制定のきっかけとなった桶川ストーカー殺人事件が代表的だが、被害者は事件前に何度も「死ぬかもしれない」と周囲に漏らし、家族とともに何度も警察に足を運んでいたが帰らぬ人となった。
人食いワニのような危険生物がいないせいもあるかもしれないが、日本人は命に関する感覚がズレている。アメリカのように、頻繁に戦争して、ワニが人を食い殺して、凶悪銃乱射事件が頻発する国では、対処の仕方が現実的になる。命を奪っていく危険な存在と共生している現実を直視しているように見える。他方、日本は平和な国・安全な国と思い込もうとしている。前提に、「危険が無い」が織り込まれている気がする。日本人が「死刑信奉」が強いのは、おそらく、「日本は平和で、日本人の中に凶悪な人はほとんどいない」が前提になっているからで、それ故に、これを揺らがすような凶悪事件が起こると「頭がおかしい、人じゃない、日本人じゃない」と騒ぎ立て「無かったことに仕立て上げたい、社会のエラーから目を背けたい」かのごとく、これを社会隔離して抹殺する。「現実を直視するが苦手な太平洋戦争の頃からの癖」が治っていない。人を食べたワニを死刑に処する、という発想は意味を成しているだろうか。否、である。習性を理解し、居住区を限定して、人を危険地域に近づけないような予防策の方が大事だとわかるはずだ。
しかも、前科持ちの犯罪者が社会復帰できないこと、再犯率が高いこと、全事件の半数は再犯者が起こしていることなどに目を瞑っている。普通の人ですら社会適応は難しいのに、前科者に対して社会復帰させることに目を向けず、半端な刑期で出して、また入れてという事ばかりしている。
「私らは毎日一生懸命働いてさ、たいした給料ももらってないし何も楽しくないのに、働かない奴らが生活保護もらってたり、犯罪犯して捕まった人間が刑務所に入って、税金で食わしてもらってるよね。世の中おかしいよね。犯罪者なんてさっさと殺したらいいんよ。世の中、意味わからんぐらい金持ってる人もいれば、ものすごい貧乏な人もいて、どれも必要な仕事のはずなのにね。働くのも生きるのもバカバカしい。生きるって何?って感じ。もう疲れた。死にたい。」
私は、悲惨な事件を起こさない、被害者を出さないという観点から、原因論に着眼している。
本来愛情を与えてくれるはずの親から疎外され(または、そう感じ)、他人を信頼する・愛することが出来ないようになり、学校や社会からの阻害(疎外感)によって、反社会的思想が萌芽する、破滅願望を持つ。あるいは全方位的に否定される中、唯一の愛情を与えられた親、親族の死があった場合は、その愛情の枯渇、渇望が生じ、歪んでしまう。自分の存在を軽視無視した社会、自分を受け入れない社会に対する憎しみを感じ、いかんせん反社会思想・否定思想の色眼鏡で世界を見るから、不条理や理不尽、腐敗、不平等などが余計に目に入ってしまう。ますます反社会思想に拍車がかかる。これを止めようとする「正義の集団」が自分とは違う恵まれた家庭の出であったり、自分を否定した社会で肯定されている人間であったりする上、彼らが何ら理解を示さず敵意を向けてくる。最後の自己顕示・鬱憤の爆発である犯罪行為は、それらに対して破壊的に反抗することがまさに自己保存行為となる。受け入れてもらう努力よりも破壊する方向へベクトルが向き、社会への復讐を実行、世間にセンセーショナルなインパクトを与える。世間の話題が自分の行為で持ちきりになり、憎い社会に不可逆な悲劇を自らの手で残し、ある意味強制的に「社会の理不尽で苦しむ」という自分の「共感者」「理解者」「道連れ」を作り、爪痕を残したまま悪い意味で、歴史に名を残して死ぬ。自己利益を求めた窃取や詐欺などとは違い、社会に対する壮大なアンチテーゼのため、当人の中では「ダークヒーローストーリー」「壮大な復讐劇」として認識されているかもしれない。自分の命を使って、捨て身で社会にメッセージを発信する。
果たして、この心理を死刑で止められるのだろうか。
仮に似たようなことを思っても、反社会的行動に移さないのが普通の人だとしたら、そうやってグッと我慢して社会適合的・生産的行動に移れる人間はいずれ、社会的に一定程度、成功する・適合するのである。これができないから、苦しんでいるのであり、犯罪行動へと結実するのだ。そういう人間が起こすのである。
当人に帰責事由は無いのに「生まれた環境くじ」でハズレを引き、この苦しみを一生引きづり、家庭や社会で不適合問題を抱え、反社会思想を持ち、破滅願望や他者に同じ苦しみを味わせたい・誰かに理解されたい願望があり、他者が嫉妬・憎悪・敵・無理解に見えてしまう。
そして、自らに社会的な制裁を下す機関が社会の上層機関である。
私は小さい頃から良い子を演じてきました。意識してやっているわけではなく、それが当たり前でした。今ではそれがおかしな事はわかっていますが、良い子を演じない自分を意識しないと本当の自分が出てこないと言う倒錯した状態なっています。そのことがあるので、取り調べを受けている時から「申し訳ない」と思っている自分は、はたして本当の自分なのかという懸念がありました。結論として検事さんや刑事さんに対して「良い子」であろうとした自分が存在していた事は否定できません。大変申し訳ないのですが、私も事件の記憶がほとんどありません。ですが、私がやったことに間違いなく、その罪から逃れるつもりは毛頭ありません。では私の非は何であるかといえば、皆様に通常の生活ではありえない苦痛を与えてしまったことであり、またその結果、人生を大きく変化させ、あるいはそこで断ち切ってしまったことです。自分がどうでもいい私などと違って、皆様には夢があり、将来は明るく、また温かい家族、恋人、友人、同僚などに囲まれ人生を謳歌していたところを私が全て壊してしまい、いくら悔いてもそれらが元に戻る事は無く、取り返しのつかないことをしたと思っています。私にはそういったものはありませんので、それらが理不尽に苦痛を自分のこととして想像することが歯がゆいのですが・・・・・。そんな中でも私に対して「親が愛情もって育てていればこんな子供にならない」とか「同じ派遣社員として複雑」などというようようなことを言ってくださる方がいました。自分が被害を受けてもなお私のことも考えてくれるような方を傷つけてしまい、自分が情けなく、涙がでます。心からお詫びを申し上げたいです。こうしてどんなに後悔し、反省して、謝罪を申し上げても被害が回復するはずはなく、私の罪は万死に値するもので、当然死刑になると考えています。ですが、どうせ死刑だと開き直るのではなく、きちんとすべてを声明しようと思っています。それは皆様と社会に対する責任であり、義務だと考えます。過去にも似たような事件が何度も発生し、それぞれ解決してきたはずなのに、何故繰り返されたのかといえば、対策がなされていないからであり何故対策がなされていないかといえば、真実が明らかにされていないからです。何故これまで真実が明らかにされてないのかは知りませんが、私は真実を明らかにし、対策してもらうことで、似たような事件を二度と起こさせないようにすることをせめてものの償いにしたいと考えています。
ー加藤智大死刑囚
死刑囚というのは、一般感覚からすると非常に理解しがたい存在である。
ただ、多くの場合、「家庭環境に問題があった」「異性にモテなかった」「結婚できなかった」「職業的に成功しなかった」などの問題を抱えており、いわばセンター入試の国語の長文問題よろしく、犯罪者の人生を全て活字を通して読解していくことで、個人問題・社会問題として真因に迫ることは可能だ。その得体の知れなさ・理解のできなさゆえに、多くの人は反射的に社会からの除去を求める。対症療法的なアプローチで消し去ろう・無かったことにしようとする。しかし、彼らの心理を読み解くと、むしろ逆効果に思えてしまう。
法廷で遺族に暴言を吐き、自ら死刑を望んで異例の早さで執行された大阪池田小事件の宅間守は、理解が及ばないその最たるものだと思うが、彼に関してマスコミで取り上げられなかった一般に知られない情報がある。接見した臨床心理学者の証言であるが、当初は暴言ばかりを吐いていたものの、徹底的に寄り添っていると、違う顔を見せるようになり、人生への後悔の弁が多く見られたという。
5歳頃から友人の顔面に石を投げる、線路に石を置くなどの異常行動・問題行動を見せ、母親が「あかん、この子産んだらあかん、おろしたいねん」と発言したという逸話が出回り、当人の行動も含めて「産まれながらにして異常者」「生粋の犯罪者」というレッテルが貼られてしまったが、接見を通して信頼関係を築いた臨床心理士の前では、「どうして自分はこうなったのか」と自分で自分を探るような姿を見せている。5歳頃には悪い子供になっていて、すぐカッとなって手を出す性分だったと自己分析し、「だからそれまでの育てられ方が大事だということですわ」と述べ、「3〜4歳までが一番大事」という人間の教育に関して示唆に富むメッセージを残している。父が母を殴り、家中血だらけという異常な家庭で育ち、「わかっていてもどうしようもない」と自分で自分を抑えられないような性質、自分について、「自分みたいな人間はまた事件を起こすから社会のために死刑でいい」と妙に客観的な発言を残した。
世の中には、彼と同じレベルかそれ以下の厳しい環境で育ちながらも、真っ当に生きている人間もいるため、「結局、異常者」で断罪されることは多いだろう。しかし、母親から産んだことを後悔する言葉を聞いていたという彼は、事件前に女性との間にできた子供を女性が中絶したことでフラッシュバック的に傷ついたり、自殺を試みていた過去があったり、段階的なプロセス、予兆がある。比較的軽微な前科もある。親子関係を希求するような素振りも見せ、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤について「父親が自殺しただけ自分よりマシ」と述べ、息子の犯罪を受け止めて親としての責任を感じて自殺した宮崎勤の父親と比べ、宅間守の父親は、「勘当した息子のやったこと」「死刑で当然」といったように突き放した態度をとっており、ここについて対比的に触れている。生育環境が破綻していた中で形成された基本的な性質が、社会構造とぶつかり合う中で悪い方向に増幅していったことが伺える。救えない家庭で生まれ、社会から救われることもなかった。生得できなかった家庭の幸せを自ら創造する事にも4回失敗しており、職業的なサクセスもなく、一貫してどん詰まりの人生。20歳前後の頃には精神病院にも入院させられている。タレントで英文学者、元参議議員の田嶋陽子女史が書籍の中で「親が悪い」と述べ、宅間はこれを嬉しそうに話していたといい、産まれてきた時から「全員敵」という世界観の中で育ち、社会の全てに対して敵対行動をとりながらも、事件後に理解を示してくれた一定の人間に対して心を打ち明ける様子が伺え「味方」「家族」を感じさせるものを前にして随所に幼稚性も発露している。信頼関係を築いた心理学者に自分の思いや言いたいことを世間に伝えるように頼んでいたり、犯行の動機についても社会にメッセージを残したいという心理は見て取る事ができる。
心理学では有名な話で、サルなどで実験しても確認できるが、親(養育者)と子の間で愛着形成できない環境で育った個体は、成長後に良好な仲間関係を築けず孤立し、自らが子を出産した後も育児を放棄するようになることがわかっており、長い人生の中で唯一無二・代替不可能とも言える親子関係がその個体の後の人生を大きく左右することは基本的な定説である。そもそも人類学的にも、家庭のタイプのアナロジーとして国家の基本的イデオロギーとなっているのであり、ドイツや日本のような成人後も直系の父系による縦型の拘束が強い国では権威主義的になるが、親子がバラバラに独立し結婚した夫婦が世帯単体として強く意識される米英では自由主義的になる。前者ではヒトラーのようなタイプが台頭しやすい。中東のようにいとこ同士の結婚も多い世界や親が結婚相手を見つけてくるような世界では(日本の田舎もそうだが)、コミュニティ意識が強くなる。自由主義世界では理解できない社会集団的価値観に拘泥したりする。アメリカと中東国家群が対立するのは当たり前である。家族の影響はどこまでも大きい。
宅間守のように味方の存在をまったく欠いて育つ場合と、彼(小林薫死刑囚)のように味方との絆の体験を知りながらそれを剥奪された場合とでは、後の反社会性の現れ方、対人関係の持ち方に違いが生まれます。前者には一貫した敵意が、後者には愛と憎しみの交錯が展開されやすい、そのような傾向が指摘できます。
ー長谷川博一(臨床心理士)
凶悪犯罪者は肯定されるべきではなく、相応の処罰は当然であるが、「原因がある」ということである。
凶悪犯罪は、普通、我々が生育の中で通過する「家庭」「社会」の2つで、うまくいってる人の想像では及ばない不適合・エラーの連続の果てに生じた産物であると言える。この現実を直視しない限り、この手の事件の発生を防ぐことはできず、ものすごい低い確率だが確率論的にどこかでこの手の事件は発生すると考えられる。
「死刑賛成!」「凶悪犯罪者はすぐ殺せ!」「俺がその事件に出くわしたらやり返してやる!」というタイプの人たちは、事後的な話しかしていない。そしてそこに対峙する犯罪者側もまた、それなりの考えや決意のもとに行動しているのだから、ガソリン火災に水を注ぐようなもので
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。